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「徳川幕府の成立」と「強国スペインの衰退」の深い関係

2020年01月27日 公開
2020年02月04日 更新

神野正史(じんのまさふみ:予備校講師)

 

停滞期に入ったオスマン帝国とムガール帝国

このように「17世紀の危機」に悶絶するヨーロッパにも喰い込み、三大陸を股にかける大帝国となっていたオスマン帝国もまた、"最寒期"の影響と無縁ではありませんでした。

しかしながら、オスマン帝国は東地中海を"マーレ・ノストゥルム(我らが海)"として、アジアとヨーロッパを結ぶ中継貿易での商業収入も多かったため、「帝国を支えるベクトル」と「衰退のベクトル」が拮抗し、帝国の行く末を左右するような大戦もなければ内乱もない「停滞期」となります。

当時のイスラームにおいてオスマン帝国と双璧を成すムガール帝国もまた、オスマン帝国とおなじような道をたどりましたが、ここから先の両国の歴史は大きく分かれていくことになります。

じつは、ひとつの国家が衰退期に入ったとき、そのままゆっくりと見せ場もなく衰亡していくパターンと、一時的に文化が華やいで"中興"が現れるパターンがあります。

"中興"が起こらない場合はゆっくりと衰退していきますが、起こった場合、"中興"が終わるや否や、一気に収拾の付かない大混乱に陥って短期のうちに滅亡することが多いものです。

この時代、オスマン帝国には"中興"が現れませんでしたが、ムガール帝国は文化が華はなやぐ"中興"現象が現れます。

第5代シャージャハーン帝のころを中心にイスラーム文化とヒンドゥー文化が融合したインド=イスラーム文化が華やぎ、建築にタージ=マハル廟、絵画にムガール絵画が栄えます。

したがって、次時代からオスマン帝国がゆっくりと衰退していくのとは対照的に、以降のムガール帝国は急速に解体していくことになります。

これに対して、前時代、オスマン・ムガール二大帝国に挟まれて発展できなかったサファヴィー朝は、両国が停滞期に入り圧力が和らいだことで、両国より少し遅れてアッバース1世(位1588~1629年)の下に絶頂期に入りました。

しかし、やはり"歴史の流れ"には逆らえず、彼の没後はオスマン・ムガール両帝国を追うようにして、停滞期に入っていきます。

つまり、この時代のイスラーム世界は、三者三様の過程をたどりつつも、結局は一斉に停滞期に入ったことになります。

 

小氷期とともに栄えた清朝、ロマノフ朝ロシア帝国、江戸幕府

このように、ヨーロッパ文化圏が「17世紀の危機」に悶絶し、イスラーム世界が停滞していったこの時代、中国は新旧交代の"明末清初"に当たりました。

サファヴィー朝がアッバース1世の下"我が世の春"を謳歌していたちょうどそのころというのは、中国では明朝第14代万暦帝の親政期(1582~1620年)に当たりますが、万暦帝はせっかく首輔(内閣大学士の長。現代日本の首相に当たる)の張居正から引き継いだ黒字財政を、相次ぐ外征と奢侈な生活でアッという間に破綻させ、明朝を亡ぼす元凶となっていきます。

万暦帝が親政を開始した翌年(1583年)には、すでに満洲(マンジュ)から女真(ジュルチン)族建州部が自立化しており、その晩年には「清」が打ち建てられ(1616年)、万暦帝の死から四半世紀と経ずして明朝は滅亡、清朝が取って代わることになりました。

こうして、すでに制度疲労を起こしていた明朝は亡び、新進気鋭の清朝に切り替わったことで、次の時代の極盛期の前提が整います。

この時代は、日本はちょうど江戸幕府の前期(初代徳川家康~4代家綱)にあたり、以降「徳川三百年」と言われるいしずえを築いていくことになりますが、じつはこの徳川政権と足並みを揃えるようにして展開した王朝が2つあります。

ひとつが、ヨーロッパのロマノフ朝ロシア帝国。

もうひとつが、中国の清朝。

この3つの王朝(正確に言えば、徳川家は将軍家)は、いずれも小氷期の"最寒期"が襲った1600年を少し越えたころに生まれ、小氷期のド真ん中の1700年前後に絶頂期を迎え、300年近く命脈を保ったのち、小氷期が明けてまもなく亡ぶという、よく似た歴史を歩みます。

まさに小氷期の最寒期に生まれ、小氷期とともに栄え、小氷期とともに亡んでいった"小氷期の申し子"ともいうべき3王朝でした。

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