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第52代・嵯峨天皇への皇位継承と薬子の変

2020年01月17日 公開
2020年01月17日 更新

吉重丈夫

薬子の変

大同5年9月10日、遷都を拒否する決断をされた嵯峨天皇は、万一に備えて使いを遣わし、伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせる。

嵯峨天皇のこの動きを知った兄・平城上皇はお怒りになり、自ら東国に赴き挙兵することを決断される。中納言・藤原葛野麻呂ら平城上皇方の近臣らはこれを諫めたが、上皇は薬子と共に輿に乗って東へと出立される。平城上皇と薬子の一行は、大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていて、とても通過できないと悟り平城京へ戻られた。

嵯峨天皇は、藤原仲成(薬子の兄)を捕らえて佐渡権守に左遷し、薬子の官位は剝奪して処罰の詔を発せられた。9月11日、仲成は処刑(射殺)された。実際には佐渡へは赴任していない。

この処刑は平安時代の政権が、律(律令)に基づいて死刑として処罰した極めて希な例で、これ以降は、皇紀1816年=保元元年(1156年)の保元の乱で源為義が処刑されるまで、346年間、死刑執行は一件もなかった。

9月12日、平城上皇は平城京に戻って出家され、薬子は服毒自殺する。翌十三日、薬子の変に伴い前年皇太子に立てられた高岳親王(平城天皇の皇子)は皇太子を廃され、代わって嵯峨天皇の異母弟・大伴親王(淳和天皇)が立太子される。

皇太子・高岳親王の異母兄・阿保親王も連座して大宰権帥に左遷される。

平城天皇の皇子へと皇位が継承される予定だったところが、この薬子の変で皇位は嵯峨天皇の異母弟・大伴親王へと承継されることとなる。

薬子の変の直後、大同5年9月19日、元号を弘仁と改元され、(弘仁元年)11月19日、大嘗祭を催行される。

皇紀1475年=弘仁6年(815年)7月13日、「皇后を立て給ふの宣命」を発せられ、橘嘉智子(檀林皇后)を皇后に立てられた。橘嘉智子は橘奈良麻呂の孫娘、橘清友の娘である。奈良麻呂は孝謙天皇の御世、橘奈良麻呂の乱で藤原仲麻呂らの尋問により、道祖王(ふなどおう)、黄文王(きぶみおう)らとともに獄死している。

橘清友が正良親王(仁明天皇)の外祖父になっているということは、橘奈良麻呂の罪は冤罪であったということがこの時期すでに確定していたということであろう。

皇紀1479年=弘仁10年(819年)3月21日、天皇は亡き夫人・吉子とその皇子・伊予親王(異母兄)の本位・本号を復すと詔される。伊予親王の謀反は讒言によるものであったとされた。

皇紀1483年=弘仁14年(823年)4月10日、嵯峨天皇は右大臣・藤原冬嗣に皇位を皇太弟・大伴親王(淳和天皇)に譲ると宣告される。

ここで譲位が行われると、一帝二太上天皇(平城上皇、嵯峨上皇)になり財政負担が大きく、冬嗣は暫くして豊年になってから譲位して頂きたいと具申したが、認められなかった。譲位に反対する右大臣・藤原冬嗣(藤原北家)の具申を押し切って、大伴親王(淳和天皇)に譲位されたのである。

4月16日、天皇は在位14年(14年余りで皇統譜には15年とある)で、異母弟の大伴親王(淳和天皇)に譲位される。譲位と同時に、嵯峨天皇の第二皇子・正良親王(仁明天皇)が立太子(14歳)される。そして4月23日、嵯峨天皇は上皇となられた。

冬嗣らの反対を押し切って譲位されたにもかかわらず、退位後に皇子・正良親王(仁明天皇)が即位されると上皇は「皇族の長」の立場で朝政に干渉される。淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って、ご自身の外孫でもある淳和上皇の皇子・恒貞親王(母が嵯峨天皇の皇女・正子内親王で淳和天皇の皇后)を皇太子とされるなどして、譲位後も朝廷内で影響力を持ち続けられた。

皇紀1502年=承和9年(842年)7月15日、仁明天皇の御世、57歳で崩御された。

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