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第56代・清和天皇への皇位継承と摂関政治のはじまり

2020年02月14日 公開
2022年06月02日 更新

吉重丈夫

応天門の変

皇紀1526年=貞観8年(866年)閏3月10日、応天門(朝廷内での政務・儀式を行う朝堂院の正門)が放火されるという事件があり、大納言の伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発した。

しかし太政大臣・藤原良房の進言があって源信は無罪となった。

源信は嵯峨天皇の皇子であるが、皇紀1474年=弘仁5年(814年)、異母弟の弘、常とともに源朝臣の姓を賜与されて臣籍降下された。文徳天皇の御世の斉衡4年には左大臣に昇進した。嵯峨天皇の七男で、官位は正二位・左大臣、贈正一位で、皇族であり初代源氏長者である。

その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、詮議の結果、伴善男父子は有罪となり、伊豆国への流刑に処された。これにより、古代からの名族であった伴氏(大伴氏)は没落する。これも結果としては藤原氏による他氏(伴氏)排斥事件の一つとなった。伴善男が源信を失脚させたかったのか、事件の真相は定かではない。

8月19日、清和天皇(17歳)は貞観6年に摂政を辞していた藤原良房に「天下の政を摂行せしむ」とする摂政宣下の詔を改めて渙発される。皇族以外の臣民で初めて摂政となったのであるが、以後、良房の子孫は相次いで摂政・関白に就くこととなる。

12月27日、藤原長良(良房の兄)の娘・高子が入内される。

皇紀1528年=貞観10年(868年)12月16日、女御・高子が貞明親王(陽成天皇)を産まれる。

皇紀1529年=貞観11年(869年)2月1日、第一皇子の貞明親王(陽成天皇)が生後3ヶ月で立太子される。ご自身は生後8ヶ月で立太子されたが、さらに短い生後間もなくの立太子であった。天皇ご自身はまだ20歳であるから、この異例の立太子も摂政良房の意向であることは明らかである。

皇紀1532年=貞観14年(872年)9月2日、摂政・藤原良房(69歳)が死去し、この時天皇は23歳になっておられた。良房亡き後、良房の養子の藤原基経(37歳)が補佐して、天皇親政を開始される。

貞観18年11月29日、藤原基経が摂政宣下を受ける。良房は男の子に恵まれず、兄・長良の息子・基経を養子としていた。基経の実父は長良で養父が良房である。
 

令外官の関白

こうして良房亡き後、良房の養子・基経(実父は兄の長良)が清和天皇を補佐する。

基経は良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代に仕え、朝廷の実力者として政権を担う。天皇から朝政を任され、後に史上初の関白に就任する。なお、関白は摂政とは異なり、最終的な決裁者は関白ではなくあくまでも天皇である。天皇の言葉に対し、「関白(あずかりもう)す」ことから来ている言葉である。

養父・良房が史上初の臣民摂政で、基経が史上初の臣民関白となり、藤原北家の最初の絶頂期を迎える。そして皇位継承問題にも、良きにつけ悪しきにつけ、深く干渉することになる。

皇紀1536年=貞観18年(876年)11月29日、天皇は在位19年(18年22日)、27歳で9歳になる第一皇子の貞明親王(陽成天皇)に譲位され、摂政の基経が幼少の天皇を補佐した。ご自身も九歳で即位され、ここでまた9歳になられた皇子・貞明親王に譲位されたのである。

地震や津波などの天災が続き、これがご自身の不徳と詫びられ譲位されたのであった。

皇紀1539年=元慶3年(879年)、地震や津波などの天災が続いたため、5月8日、清和上皇は身の不徳を詫びるために出家され、畿内を行幸される。そして水尾(京都市右京区)に隠棲された。

清和天皇の皇子の多くが臣籍降下され、源姓を賜り、後の清和源氏の祖となった。

皇紀1540年=元慶4年(880年)12月4日、譲位されて4年後、31歳で崩御される。

この時点では次の陽成天皇はまだ13歳であった。

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