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第57代・陽成天皇の皇位継承

2020年03月03日 公開
2020年03月12日 更新

吉重丈夫

星空

「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は陽成天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

皇位継承事典

星空
 

第57代 陽成天皇

世系38、即位9歳、在位8年、宝算82歳

皇紀1528年= 貞観10年(868年)12月16日、清和天皇の第一皇子として誕生された貞明親王で、母は権中納言・藤原長良の娘で女御の藤原高子(二条后)である。関白・藤原基経の同母妹に当たる。

皇紀1529年=貞観11年(869年)2月1日、第一皇子の貞明親王(陽成天皇)が生後3ヶ月で立太子される。先帝・清和天皇に続いての乳児の立太子であった。

皇紀1536年=貞観18年(876年)11月29日、9歳で清和天皇から譲位を受け、貞観19年1月3日に即位される。母・藤原高子の兄である基経が摂政に就く。

貞観19年4月16日、元号が元慶に改元され、11月18日大嘗祭が催行された。

皇紀1540年=元慶4年(880年)11月8日、基経は関白に就き、同年12月4日には太政大臣に任じられる。
 

傷害致死(?)事件

陽成天皇皇紀1543年=元慶7年(883年)11月10日、貞明親王(陽成天皇)の乳母であった紀全子(またこ)の子・源益(すすむ)が殿上で突然何者かに殴殺された。天皇の関与が疑われ大事件となる。この時、天皇は16歳であり、少年と子供のことで、単なる悪ふざけによる事故であった可能性が高い。

しかし天皇による宮中での傷害致死または殺人事件(故意か過失かは不明)ということであれば、前代未聞の大事件であり、ついに摂政・藤原基経は天皇の廃立を考える。

ここで基経は第54代仁明天皇の御世、嵯峨が上皇の崩御後間もなく発生した「承和の変」で、皇太子を廃された恒貞親王(淳和天皇の第二皇子)に即位を願ったが、すでに出家しておられ辞退される。そこで仁明天皇の第三皇子・時康親王に願って承諾を得られたので、新帝に推挙することとなった。

ここでは、少なくとも形式上は、臣下の者が、今上天皇を廃して新たな天皇を選ぶという行為を行っており、皇位継承問題としては極めて大きな問題を内包している。天皇が崩御された時、誰に即位して頂くかという問題をさらに超え、今上陛下を退位させるということだからである。摂政としての基経にも、この問題意識はあったはずであり、その苦悩が思われるが、極めて希な先例となる。ちなみに、この時、基経は48歳であった。

摂政・基経は公卿会議を開き、その決定を以て、陽成天皇(16歳)に退位を願った。皇紀1544年=元慶8年(884年)2月4日、陽成天皇は公卿会議の願いを容れ、あくまでも「願った」のである。「譲位の宣命」を発せられ、在位8年(7年1ヶ月)、17歳で退位される。皇統譜には在位9年とあるが、実際は譲位を受けて7年2ヶ月余り、即位されてからは7年1ヶ月である。

臣下の者の要請で退位ということが行われ、皇位継承に関しての極めて珍しい異常な事態が発生した。もちろん、表向きの手続きとしては、ご不例による自発的退位とされた。

基経の行動が良かったのか良くなかったのかは今となっては評価不能である。ただ、天皇の即位・退位に関する長い歴史上で起きた先例としては、記憶されるべきことである。陽成天皇には退位後に誕生された皇子に、源清蔭親王、元良親王、元平親王らがおられる。

皇紀1609年=天暦3年(949年)9月29日、退位されて65年後、村上天皇の御世に82歳という長寿で崩御された。

陽成上皇の上皇在位65年は、2位の冷泉上皇の42年を大きく凌いで最長である。そして上皇在位は、第58代光孝天皇から第62代村上天皇までの5代の御世にわたっている

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