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金ケ崎、称念寺、一乗谷…福井県に明智光秀の足跡を求めて

2020年03月15日 公開
2023年10月04日 更新

『歴史街道』編集部

一乗谷で足利義昭と共に

その一乗谷は、戦国時代に朝倉氏五代が、103年の長きにわたって築いた城下町である。

最盛期には1万以上の人口を誇り、文化も発展していて、日本屈指の都市として繁栄した。

しかし天正元年(1573)、朝倉義景が織田信長によって滅ぼされると、一乗谷も焼き討ちされてしまう。その後、柴田勝家が現在の福井市に北の庄城を築くと、この地は水田となってしまった。

ところがそれから400年後、昭和の発掘調査により、城下町の遺構がほとんどそのままの状態で残っていることが明らかとなった。

全国的に見ても稀有な遺跡として、現在はとして整備されている。

特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡へは、明智神社から車で十五分ほどだが、まずは福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館に足を運ぶ。

一乗谷の出土品など約五百点が展示され、朝倉氏と一乗谷の歴史を知るには欠かせない場所である。

学芸員の石川美咲さんに話を伺った。一乗谷は、医療・医学面でも、先進地域であり、朝倉氏は最先端の医術をとり入れることに熱心であったという。

一乗谷朝倉氏遺跡には、「医師の屋敷跡」と特定された区画があるだけではない。天文5年(1536)には、医学書が木版印刷によって出版されており、これは日本で二番目に古い医学書出版事例だという。

近年新たに発見された史料『針薬方』によって、光秀に医学の素養があったとする説が出されているが、一乗谷の医療・医学事情を踏まえると、なかなか興味深い説である。

遺跡内には、朝倉義景の居館である朝倉館跡や庭園跡、城下町を再現した復原町並もあり、当時の繁栄ぶりがしのばれる。

中でも光秀とのゆかりを感じさせるのは、朝倉館跡である。永禄10年(1567)、朝倉氏を頼ってきた足利義昭は、この館で元服の儀などを執り行なったという。

朝倉館跡の南西1キロメートルほどには、義昭の滞在地と考えられる「御所・安養寺跡」もある。

安養寺

光秀は義昭と信長の仲介役を担ったとされるが、この場所で、義昭や細川藤孝らと、今後の方策について語らったのだろうか。

将軍位を求めて上洛を目指す義昭。美濃を押さえ、勢いに乗る信長。そんな二人の狭間で、光秀は「時代が動きつつある」という高揚感を抱いたのかもしれない。

そして永禄11年(1568)、義昭は越前を離れ、信長のもとへと赴く。光秀も越前を後にし、信長のもと、その才を発揮していくのである。

光秀の越前時代は、確かに謎が多い。しかし、福井県をめぐると、そこには確かに、「光秀の足跡」が感じられた。

ありし日の光秀を、感じ取ってみたい……。そんな時は、福井県を訪ねるといいだろう。

福井県内の明智光秀関連史跡地図

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