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第59代・宇多天皇の皇位継承

2020年03月19日 公開

吉重丈夫

平安神宮

「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は光孝天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

皇位継承事典
 

第59代・宇多天皇

世系三37、即位21歳、在位10年、宝算65歳

皇紀1527年= 貞観9年(867年)5月5日、時康親王(光孝天皇)の第七王子として誕生され、臣籍降下しておられた源定省(みなもとのさだみ)である。母は桓武天皇の皇子・仲野親王の女王で光孝天皇の女御・班子であり、皇族である。

皇紀1547年=仁和3年(887年)8月25日、臣籍降下しておられた源定省が、光孝天皇の崩御と共に、21歳で皇族に復帰され親王宣下を受けられる。

源定省は藤原高藤の娘・胤子を妃として、後に敦仁親王(醍醐天皇)を産まれた。

先帝・光孝天皇がご不例で重態に陥られるが、後継指名をされなかった。そこで摂政・基経は天皇の内意が源定省にあると確信し、それを朝儀で決定させた。先々帝・陽成上皇はご健在で、兄弟皇子も多く、しかも陽成上皇ご自身の皇子も多数おられたので、光孝天皇としてはご自分の皇子を後嗣として指名することなどとてもできなかった。従ってここでも基経が気を利かして働いている。

8月26日、源定省が親王宣下を受けられた翌日、「定省親王を皇太子と為し給ふの策命(和文体の宣命)」が発せられ、定省親王が21歳で立太子され、即日践祚された。

そしておよそ3ヶ月後の11月17日、皇太子・源定省が宇多天皇として即位される。

陽成天皇の退位といい、光孝天皇の後継問題といい、藤原基経の差配で決定している。源定省の即位は、廃位させられた陽成天皇がご健在である中での決定だっただけに、基経にとって苦渋は大きかったと思われる。

この年11月21日、太政大臣・藤原基経に再び関白としての役割を果たすよう詔勅が発せられた。翌皇紀1548年=仁和4年(888年)11月22日、大嘗祭を催行される。

皇紀1551年=寛平3年(891年)1月13日、宇多天皇の誕生に多大な貢献をした関白の藤原基経が56歳で死去する。ここで天皇は親政を開始された。

天皇は基経の長男・藤原時平を参議にする一方で、源氏や藤原保則(藤原南家、藤原乙叡の孫)、菅原道真といった藤原北家嫡流でない者も抜擢された。

そして、宇多天皇は阿衡事件の教訓から、藤原北家嫡流を外祖父とする皇子の皇位継承を望まれず、為子内親王(醍醐天皇妃、光孝天皇の皇女)を母とする皇子を立太子させる方針でおられたが、不運にして勧子内親王をお産みになると同時に薨去された。ここで、藤原時平(基経の長男)が為子内親王の次の妃として、妹の穏子を入内させようとして、これに反対する宇多天皇と対立する。

なお、阿衡事件とは基経を関白に任じられるに当たって、「万機は全て太政大臣(基経)に関白し、しかるのち奏下すべし」と詔され、藤原基経が初の人臣関白に就いたが、左大弁・橘広相の起草した詔の中に、「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」との文言があり、基経がこれに立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠ってしまった事件である。

文章の中の「阿衡の任をもって」が「阿衡は位貴くも、職掌なし」という内容であることを文章博士の藤原佐世が説明したからであった。この説明は間違っており、天皇のお気持ちとしては「職掌大なり」であった。寧ろ基経を頼りにされたのである。

宇多天皇の即位に当たって藤原北家の基経が果たした功労はともかくとして、上皇がこれら一連の断固たる措置をとられたことが、不幸にしてまた後の醍醐天皇の御世の「昌泰の変」に繫がることとなった。

皇紀1553年=寛平5年(893年)4月2日、第一皇子・敦仁親王(醍醐天皇)が九歳で立太子される。

皇紀1557年=寛平9年(897年)7月3日、宇多天皇は突然、在位10年(皇統譜には11年とあるが実際は10年弱)、31歳で13歳の皇太子(醍醐天皇)を元服させて即日譲位され、7月10日、太上天皇となられた。

宇多天皇の一歳年少である陽成上皇との関係が微妙だった。天皇は皇位に就く前に陽成天皇に仕えておられ、神社行幸の際には舞を命じられたりしておられた。『大鏡』には、陽成上皇が宇多法皇のことを、「あれはかつて朕に仕えていた者ではないか」と言われたとある。陽成上皇が復位を意図しておられるという風説もあって、これが宇多天皇を常に悩ませたようであった。それで早々に譲位されたものと思われる。

宇多天皇は譲位に当たり、醍醐天皇に天皇としての心構えを記した「寛平御遺誡」を授けられた。

皇紀1559年=昌泰2年10月、宇多上皇(33歳)は東寺で受戒され出家された後、仁和寺に入り法皇となられる。宇多天皇はその御世の大半が法皇であられた。

皇紀1591年= 承平元年(931年)7月19日、朱雀天皇の御世、65歳で崩御される。



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