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なぜ徳川慶喜は大政奉還を受け入れたのか? 見誤った薩摩藩の内情

2020年05月25日 公開
2022年07月14日 更新

山本博文(東京大史料編纂所教授)

徳川慶喜
晩年の徳川慶喜
 

実は挙兵に大反対だった薩摩藩の内部事情

薩摩藩の挙兵計画は、それほど現実的なものだったのでしょうか。

この噂は、慶応3年(1867)5月24日、徳川慶喜主導で兵庫開港の勅許が行われた頃から流れています。兵庫開港勅許は、慶喜と薩摩・土佐・越前・宇和島の四藩主との関係を悪化させることになったからです。

長崎から上京してきた後藤象二郎は、薩摩藩の挙兵計画を聞き、何としても内乱を避けなければならない、と考えます。そこで、土佐藩京都藩邸の重役に、大政奉還を将軍に働きかけ、奉還後は朝廷内に新たに設置する議会に国政の運営を任せる、という案を提案します。内乱が起きることなく幕府を終焉させ、慶喜を中心に雄藩藩主が政治を遂行する体制に移行させる、という構想です。

これに西郷隆盛も飛びつきました。もし、慶喜が大政奉還を拒否すれば、それを大義名分として挙兵することができるからです。

西郷隆盛
西郷隆盛

8月14日、西郷は、長州藩に挙兵計画を打ち明けています。京都に滞留している薩摩藩兵千名を三つに分け、御所の守衛を行うとともに、会津藩邸と幕府屯所を襲撃する、というものでした。

しかし、この時、薩摩藩の国父(藩主の父)島津久光は鹿児島におり、出先の西郷や吉井友実らの先走った行動だったようです。

西郷らから出兵要請を受けた鹿児島では、なぜ京都へ出兵しなければならないのか理解できず、また財政窮乏もあって出兵は難しいとの議論が主流でした。京都藩邸の最高責任者である家老関山糺らは、挙兵に大反対で、久光の許可を得て西郷を手討ちにしようとまで考えていました。

薩摩藩士の一人は、「この二人(西郷と吉井)はどういう者たちなのだろう。(挙兵すれば)長州藩の二の舞になることは明らかで、初めは勢いがあるかもしれないが、すぐに兵糧切れになるのは疑いない。実に国家(薩摩藩)の大賊とも言うべく、憎むべき者たちである」と日記に書いています。

多くの薩摩藩士にとって、まだ幕府は強大な相手で、とうてい薩摩藩だけで倒幕などという大それた計画を実現できるとは考えていなかったのです。

西郷にしても、薩摩藩の京都挙兵で倒幕が実現するという成算があるわけではありませんでした。ただ、倒幕の尖兵となって死ねばよいという、この頃の尊皇攘夷派に特徴的な思考方法があったにすぎません。

しかし、薩摩藩内部が対立を含み、西郷らの強硬路線が少数派であったとしても、土佐藩が大政奉還の建白書を出した頃には、薩摩藩の挙兵計画が実体のあるものと受け取られていたのです。

大政奉還は、摂政二条斉敬や中川宮(朝彦親王)にとっても衝撃でした。即位したばかりの明治天皇は幼少で、また政治を数百年にわたって武家に任せていた公家たちに国政担当能力はなかったからです。

慶喜は、督促してまで大政奉還の受諾を求めます。形式的にではなく、本気で大政を奉還しようと考えていたのです。

その後の歴史的経過から考えれば、政治の実権を握る根拠となる将軍職を手放したのは失敗でした。しかし、慶喜とすれば、大政奉還によっていったん事態を収め、その後は自分の政治力で国政の主導権を握るという選択もありえるように思えたのでしょう。

激動する政治の場では、相手の内情や本当の実力は見えません。慶喜の場合は、相手を過大評価し、一時後退の手段をとったために、流れを相手に渡してしまったのです。この時、別の決断をしたら、政局は別の形で動き、日本近代のあり方もまったく違っていたかもしれません。

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