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信長を追い詰めた“戦国の雄”朝倉五代と一乗谷の真実

2020年06月17日 公開
2022年08月01日 更新

吉川永青(作家)

一乗谷朝倉氏遺跡復元町並で展示されている一乗谷のジオラマ(写真:近戸秀夫)
一乗谷朝倉氏遺跡復元町並で展示されている一乗谷のジオラマ(写真:近戸秀夫)

《越前の戦国大名・朝倉氏というと、「朝倉義景は凡庸だった」というイメージで語られることがある。しかし、果たしてそうした見方は正しいのだろうか。

現在発売中の月刊誌『歴史街道』2020年7月号の特別企画では、「朝倉五代と一乗谷の真実」と題し、見落とされてきた朝倉氏の実相に迫っている。ここでは、作家・吉川永青氏による五代百年のあゆみに関する論考を紹介しよう》

※本稿は月刊誌『歴史街道』2020年7月号より一部抜粋・編集したものです。

 

時節を見る目と謀略の冴え~下克上で越前国主の座に

朝倉氏の本拠・越前一乗谷は、他と比べて少し特殊である。東西を山に挟まれた文字どおりの谷間には、朝倉氏の館と一乗谷城、そして城下町が存在した。ここまでなら、取り立てて他と変わらない。しかし、この谷間という立地を巧く使っている。谷の南北の終端にそれぞれ上城戸と下城戸が備えられ、これで町の全てを守る形になっているのだ。

一般に城下町は城を守る盾の役割が大きい。当然、その盾に囲いを備えて守ったりはせず、町は今と同じように外界に開けていた。対して一乗谷は、町を包括する城塞都市の様相を呈している。これは東西の山という天険があってこその構えだろうし、襲撃されて上下城戸を抜かれた時には、やはり城下町が盾として機能するのだが、それでも町作りの思想に大陸的なものがあるように思える。

この一乗谷は朝倉氏五代の拠点だが、朝倉氏そのものは初代・広景から最後の当主・義景まで十一代続いた家柄であり、五代とは戦国大名化してからの歩みを指す。

以下、戦国大名・朝倉氏の概略を記してゆこう。人名については、幾度も改名している場合は最も良く知られる諱で統一し、同じ諱を持つ人物には混乱を避ける呼称を用いる。

朝倉氏は元々、越前守護・斯波氏の被官である。それは朝倉英林孝景(英林は法名)が当主となった頃から変わっていった。

長禄2年(1458)7月頃、越前で守護・斯波義敏と守護代・甲斐常治の間に争いが起きた。英林孝景は甲斐氏に与して主君と戦い、翌年八月に斯波氏を撃退した。そしてその翌日、都合の良いことに守護代・甲斐常治が京で死去する。戦勝の実績と併せ、朝倉氏は越前での影響力を強めていった。

敗れた斯波義敏は、この合戦を引き起こした廉で八代将軍・足利義政の怒りを買い、わずか3歳の嫡子・義寛に家督を譲らされた。英林はこれに目を付ける。そして「若年の義寛には守護の務めを果たせない」と唱え、斯波義廉を新たな守護に据えて傀儡とした。

応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、英林は幕府侍所頭人・山名宗全の西軍に付く。だが将軍・義政と管領 ・細川勝元の東軍から守護権限行使の密約を得て鞍替えし、山名に繫がりのある傀儡の主君・斯波義廉とも袂を分かった。この寝返りで東軍は圧倒的に優勢となり、乱は終息に向かう。

以後、英林は越前を実効支配して領国化し、斯波氏に代わって越前国主の座に就いた。紛うかたなき下克上である。時節を見る目と謀略の冴えは、同じく下克上で大名となった北条早雲や斎藤道三らに勝るとも劣らない。
旧主・斯波氏からは、しばしば守護職返還の訴訟が起きた。また、かつて朝倉と同じく斯波氏重臣だった甲斐氏と二宮氏も介入してくる。こうした状況の中で英林は死去、家督は長子・氏景に受け継がれた。

余談だが、氏景を「長子」と書いたのは、英林が末子の小太郎を嫡子としていたからだ。だが英林逝去の折に小太郎は5歳、難局を乗り切れるはずもない。氏景は家臣団の求めを容れて当主となった。家督を取り損なった小太郎は、後の朝倉氏の柱石・朝倉宗滴である。

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