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山本五十六は、なぜ真珠湾奇襲攻撃を決断したのか



2020年07月14日 公開

戸高一成・ 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長

零戦と戦艦大和、二つの最強兵器

山本は「海軍航空育ての親」ともいえる存在だった。昭和5年、山本は海軍航空本部技術部長となったが、当時、日本の航空技術は世界のレベルから大きく立ち遅れていた。

すでに航空主兵の時代を予期していた山本は、「日本の航空発達は、国産化なくしてありえない」という信念のもと、海外からの技術導入を積極的に行ない、それを日本独自の技術として育てていくことに努めた。

その努力は昭和15年、世界一と謳われる戦闘機、零式艦上戦闘機として結実する。

零戦の特徴は、「短距離ランナー(高速、格闘性能)と長距離ランナー(航続距離の長さ)」の性能を併せ持ったことである。

そもそも高速と航続距離の両方を併せ持つ戦闘機など実現不可能に近い「ないものねだり」である。それを可能にしたのが、三菱の主任設計技師・堀越二郎らの持つ技術力だった。零戦の機体は徹底的に軽量化され、空気抵抗を減らすための引き込み主脚や、密閉操縦席といった最新技術が導入され、主翼主桁には、当時世界最高水準の強度を誇った超々ジュラルミンが使用されていた。

また、エンジンの回転数を常に最適回転数に保つための「可変ピッチプロペラ」という最新技術を導入し、これによって長大な航続距離を可能にしたのである。この時、日本の航空技術は世界水準に至ったといっても過言ではない。

また零戦が世界最強を誇ったのは、パイロットの技量によるところも大きい。戦闘機の戦闘力はそのかなりの部分がパイロットの技量に左右される。開戦当初、零戦が無敵を誇ったのは、日中戦争を戦った歴戦のパイロットたちが揃っていたからでもあった。昭和15年の日本は航空技術、パイロットの技量ともに世界最高レベルに達していたのである。当時においては、機数が同じであれば零戦に対抗できる戦闘機隊は世界中どこにもなかっただろう。

世界最高を誇ったのは、航空機だけではない。造船の分野でも日本の技術は世界レベルに達していた。昭和16年には、新鋭空母の翔鶴と瑞鶴が竣工する。翔鶴と瑞鶴は大出力の機関で34ノットの高速を誇り、防御力にも優れ、太平洋戦争を通して活躍することになる大型正規空母の決定版であった。

そして極めつきは戦艦大和である。軍艦設計の天才・平賀譲の教え子たちの設計による大和型戦艦の主砲は、世界最大の46センチを誇り、3万メートルの距離で厚さ40センチの甲鈑を貫通できた。また船体は46センチ砲の砲撃に耐えうる装甲が施されており、戦艦として評価した場合、攻撃力、防御力において、まさに世界史上最も強力な戦艦といえよう。

また設計のレベルはもちろんのこと、大和を建造した呉海軍工廠の設備や、工員の技量など総合的な観点からいって、大和のような巨大戦艦を造れる国は当時ほとんどなかったであろう。日本は建艦能力においても、世界レベルに達していたのである。

日米開戦を控えた昭和16年において、日本海軍は最高水準の戦闘機と戦艦、新鋭の空母、そして名人揃いのパイロット、さらには優れた技術力を保有し、世界最強レベルの海軍になっていたことは間違いない。

とはいえ、それは薄氷を踏むような世界最強でもあった。航空機、戦艦を造るうえで日本海軍はあまりに一点豪華主義に過ぎた。通常、軍備は総合的な平均点の高さを競うものである。日本は零戦、戦艦大和という技術の頂点を極めた兵器はあったものの、総合力を見た場合、平均点は世界最高とはいえない。

それは資源を持たず、国力の劣る日本の苦しい選択であった。兵器の生産量で争えば、日本はアメリカに敵わない。ならば、量を質で凌駕し、各局面の戦闘において、確実に敵を撃滅できる最強の部隊を作ろうというのが、日本海軍の狙いだった。それはまさに、乾坤一擲の大勝負に臨むに相応しいものであった。

山本率いる連合艦隊とは、「持たざる国」日本が健気なまでの努力によって何とか作り上げた、世界最強の海軍だったのである。
 

山本五十六の真意

戦力が整ったとはいえ、真珠湾攻撃は山本にとって非常に苦しい決断だったことに変わりはない。

対米戦争に断固反対だった山本は、真珠湾に出撃する部隊に、日米交渉が妥結された場合には引き返すように命じ、開戦決定のその日まで、日米交渉の行方を見守り続けた。そして、攻撃前のアメリカへの最後通告が正確になされるかも気にかけていた。

これはあくまで私見だが、山本が真珠湾攻撃を立案したのは、実は不可能と見なされる策を敢えて提出することによって、政府首脳に対米戦争が絶対に不可であることを悟らせようとしたからではないか。

だが、日米交渉は行き詰まり、開戦の現実味は増すばかりだった。軍人であれば、戦う以上、勝つための方策を考えなければならない。そこで山本は、

「対米戦を回避できないならば、彼我の戦力が拮抗している早期に決着させよう。そのためにはやはり、真珠湾に乾坤一擲の奇襲を仕掛けるしかない。そして今こそ、それに相応しい戦備が整っている」

と思い定めたのではなかったか。山本の中で真珠湾攻撃は、戦争回避のための方策から、戦争を早期に終結させるための戦略に変容していったのだろう。

かくして、真珠湾攻撃は成功した。米太平洋艦隊の動きを封じた山本は、その後、戦略的価値の低い、南方の島を大量に占領していく。個人的な推定になるが、それは、米太平洋艦隊が再建される前に、広域の領土を占領しておいて、それを早期講和のための外交カードにしたかったからではないか。ミッドウェーの敗戦によって、この計画は頓挫するのだが、山本は政府がいつ講和交渉に乗り出すか、祈るような気持ちだったに違いない。

山本の存在は、あたかも昭和日本の苦しみを一身に体現しているかのようである。「持たざる国」が戦わざるをえない状況に置かれ、選択肢の少ないぎりぎりの中で決断を迫られたのが真珠湾攻撃だったといえる。

対米戦に断固反対であったのは山本だけではない。当時、大半の日本人が対米戦は無理だと考えていた。政府首脳も、昭和天皇も戦争を回避したかった。それにもかかわらず、開戦に至ってしまったのである。戦争の真の恐ろしさとは、ほとんど誰も戦うつもりがないのに、それでも起きてしまうことにあるのではないか。だからこそ、戦争に至るプロセスを解析していくことが今後のためにも重要なのである。

同時に、まさに戦争が起きようとしている瞬間にあって、日本人がどんな思いをもって臨んでいたのかも、問われるべきであろう。そうでなければ、あの戦争の真の姿は見えてこない。真珠湾攻撃と山本五十六とは、その象徴といえるのではないだろうか。

(談)



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