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第61代・朱雀天皇の皇位継承と平将門の乱

2020年07月08日 公開
2022年06月21日 更新

吉重丈夫

平安神宮

「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は朱雀天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

皇位継承事典
 

第61代 朱雀天皇

世系39、即位8歳、在位16年、宝算30歳

皇紀1583年=延長元年(923年)7月24日、醍醐天皇の第十一皇子(皇統譜では第十四皇子)として誕生された寛明親王で、母は藤原基経の娘で中宮の藤原穏子である。

寛明親王誕生の直前の3月21日、第二皇子で醍醐天皇の皇太子・保明親王が薨去(21歳)され、続いてすぐに立太子された保明親王の王子・慶頼王もまた延長3年6月に5歳で薨去される。

同母兄・保明親王とその王子の慶頼王の二代にわたる東宮とその子の夭折という悲運が続いたあとを受け、皇紀1585年=延長3年(925年)10月21日、薨去された皇太子・保明親王の同母弟の寛明親王が3歳で立太子された。

醍醐天皇には、嵯峨源氏・源昇の娘を母とする第四皇子の重明親王(20歳)がおられ、さらに光孝天皇の皇女で女御・源和子を母とする第五皇子・常明親王(20歳)、第六皇子・式明(のりあきら)親王(19歳)、第七皇子・有明親王(16歳)などもおられた。母の地位も年齢も立太子の資格は充分あった。またさらに嵯峨源氏・源唱(みなもとのとなう)の娘で更衣の源周子を母とする第十皇子・源高明もおられた。

なお、この源高明はのち冷泉天皇の御世、「安和の変」で追い落とされる。あくまでも、藤原氏以外には皇位は譲らないという固い姿勢が感じられる。

皇紀1587年=延長5年(927年)9月24日、醍醐天皇の第一皇子・克明親王が薨去(25歳)される。母は光孝天皇の皇子・源旧鑑(みなもとのもとみ)の女で更衣の源封子である。

皇紀1590年=延長8年(930年)9月22日、先帝の醍醐天皇は皇太子・寛明親王に譲位される。菅原道真の怨霊に悩まされながらも、皇太子がまだ8歳と幼少なので皇位を保ち朝政を執っておられたが、6月26日の清涼殿落雷事件で、ついに皇太子・寛明親王に譲位される。そして11月21日、朱雀天皇として8歳で即位された。しかしその直前、醍醐天皇は皇位をお譲りになって間もない9月29日、父帝・宇多法皇に先立って46歳で崩御された。

関白・藤原基経の亡きあと、基経の四男で時平の弟の藤原忠平が、道真とはそれほど関係が悪くなかったこともあり、朱雀天皇の摂政となる。基経以来53年ぶりに摂政が置かれた。

皇紀1591年=延長9年(931年)4月26日、元号が承平に改元され、翌承平2年11月13日、大嘗祭を催行される。

承平元年7月19日、宇多法皇が皇子の醍醐天皇を追うようにして65歳で崩御される。

皇紀1597年=承平7年(937年)、保明親王(醍醐天皇の皇太子)の第一王女・煕子女王が叔父の朱雀天皇に入内し女御宣下を受けられる。母は故・時平の娘・仁善子(にぜこ)である。しかし、皇女・昌子内親王が誕生されて間もなく薨去された。

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