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硫黄島の激戦~苛酷な持久戦で米軍を戦慄させた気高き男たち

2020年07月17日 公開
2022年11月09日 更新

秋月達郎(作家)

硫黄島
硫黄島

「米軍の砲爆撃は硫黄島には通用しないのではないか」

ホランド・スミス海兵隊中将は、恐れ慄きながらつぶやいた。

実際、島そのものを消し去るような猛烈な艦砲射撃や空爆に、日本軍が構築した地下陣地はびくともせず、全島要塞と化していたのだ。

そして陣営では、総指揮官の栗林をはじめ、戦車聯隊を率いるバロン西や、米大統領を書簡で叱責した市丸海軍少将らが、冷厳に生死を見据えながら、己の誇りをかけた戦いを挑むべく、静かに魂を昂ぶらせていた。

※本稿は、歴史街道編集部編『太平洋戦争の名将たち』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
 

要塞化された詩情豊かな島

これほど美しい島の名が、他にあるだろうか。

島はそもそも帝都に属しており、旧かなづかいでは、

―いわうたう。

と、表記された。

岩が歌っているのである。

もちろん、命名の基は明治22年(1889)から採掘が始められた硫黄で、島の表面はあらかた硫黄の堆積物に蔽われている。すなわち火山島であり、摺鉢山という火砕丘をもつこの島は、いつなんどき、爆発してもおかしくない。

実際、島が東京府小笠原支庁硫黄島村と制定された昭和15年(1940)にも、水蒸気爆発が見られた。また全体に地温が高く、多くの噴気地帯や硫気孔がある。海岸段丘や断層崖も少なくなく、現在も活発な隆起が続いている。つまり、活きているのである。岩が歌っているというのはそういうことで、詩情豊かな掛け詞になっているといっていい。

そんな帝都最南端の島に第一〇九師団長に親補された栗林忠道中将が進出したのは、昭和19年(1944)6月8日のことである。栗林が最初にしたことは、師団司令部を父島に置くべきという周囲の意見を退け、直接に指揮の執れる硫黄島に設置したことだった。理由は「小笠原諸島中、硫黄島には最良の飛行場があり、最も重要な戦略的価値を有する。敵の攻撃目標も硫黄島であろう」というもので、極めて明快である。

また栗林は、進出後速やかに島内の視察を行ない、ひとつの結論に達した。

水際配備のみでなく、縦深配備が必要という結論だった。おなじ頃、大本営もまた「優勢なる敵の砲爆撃下に於て過早に兵力を水際に配置し敵上陸に先立ち半身不随に陥るが如きは大いに考慮を要す。寧ろ敵上陸の当夜其の橋頭堡固からざるにあたり計画統一ある夜襲を以て一挙に敵を撃破するを可かとせずや」と指導し、小笠原及び硫黄島方面が本土防衛の外殻地帯として極めて重要な戦略的地位を占めるようになってきたことから「小笠原地区集団を小笠原兵団として七月一日零時以降大本営直属とする」戦闘序列を令した。

これらにより、栗林は小笠原兵団長となって島の防備計画を変更することとした。

すなわち「摺鉢山、元山地区に強固な複郭拠点を編成し持久を図ると共に強力な予備隊を保有し、敵来攻の場合、一旦上陸を許し、敵が第一(千鳥)飛行場に進出後、出撃してこれを海正面に圧迫撃滅する」という構想だった。

だが、上陸した敵の目をかいくぐって邀撃を行なうには、島を縦横に駈け巡るための連絡路が必要となる。路は最後の最後まで米軍に遮断されてはならない。果たしてそんな路が存在するかといえば、あった。地下である。それも陣地の地下10メートル附近を貫通する洞窟式交通路で、昭和19年12月下旬から準備が、翌年1月下旬から構築作業が始められた。

たった5トンしかないダイナマイトの他はすべて人力で、ツルハシを揮い、スコップで掘り、モッコで運ぶのである。しかも通常の土地と違い、硫黄に蔽われたこの島は至るところからガスを発生させ、ときに洞窟内に充満する。このガスと焦熱のため、掘削作業は遅々として進まず、防毒マスクのない兵たちが作業する場合など、3分交代でツルハシを揮わなければならない過酷さだった。

この洞窟式交通路は建設途中で米軍の上陸を迎えてしまったために予定の6割しか完成しなかったが、それでも総延長で18キロメートルという想像を絶する長さまで掘り進められた。しかも、実質作業はおよそ1カ月というから、島にあった陸海軍の将兵ことごとくが手を携えたにせよ、その作業能力は人間ばなれしている。全島を要塞化しようとした栗林以下の精神力の凄まじさを如実に物語るといっていいが、この連絡通路は実戦においても大いに威力を発揮した。

米軍は、硫黄島の攻略日とした2月19日までの74日間で、第七空軍のB-24を中核とした爆撃編隊を投入し、約2700個6800トンに及ぶ爆弾を投下した。さらに大西洋から回航させた戦艦も加えて2月16日から3日間もの艦砲射撃を続行した。それは、島そのものが軍事地図から姿を消してしまうほどの凄まじさだった。実際、ホランド・スミス海兵隊中将は一本の草木も無くなってしまった島の表面を眺めて「ダンテの神曲の挿絵のようだ」とも歎息した。だが、これだけの攻撃を受けても、地下洞窟はびくともしなかったのである。

日本軍はこの人工洞窟を縦横に利用し、破壊された陣地を次々に復旧させた。爆撃当初に450を数えていた陣地が、攻略予定日には750カ所に増えていることが、その証である。

この防備力の凄さに、ホランド・スミスは心底から慄えあがり「米軍の砲爆撃は硫黄島には通用しないのではないか」と恐れ慄き、従軍していた記者に「わが軍の被害は2万を超えるかもしれない」と洩らした。

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