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中川州男とペリリュー島の戦い~バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

2020年07月27日 公開
2023年02月15日 更新

早坂隆(ノンフィクション作家)

地下陣地の構築

4月、ペリリュー島に赴任した中川は、まず島内を隈なく自分の足で視察した。同島は南北約9キロ、東西約3キロの小島であるが、その地形は島の中央部に密林の山岳地帯が広がっており、かなり複雑であった。中川は地形に関する理解を深め、守備隊の防備について細部まで確認した。

中川はこの時、守備力の絶対的な不足を痛感した。米軍と正面からぶつかっても勝ち目はないであろう。そう見定めた中川が強力に推進したのが、島内の中央部に地下壕を張り巡らせる作戦であった。ペリリュー島には天然の洞窟や、リン鉱石の採掘場などが無数に存在していた。それらを拡張して繫ぎ合わせ、大規模な地下陣地を構築しようというのである。

このような作戦は東京の軍上層部でも議論されていたが、実際に現地を見た中川が具体案を仔細に取りまとめた上で、着実に具現化していった。「現場からのたたき上げ」である中川が何よりも重視したのは、戦闘が始まる前の「準備」であった。中川と言うと豪快で大胆な人物像が先行するかもしれないが、元部下たちの証言によれば、実際にはとても「細やかな性格」であったと伝えられる。優れた軍人の必須条件の一つには「用意周到であること」が挙げられるのではないか。

兵士たちは島の各地で昼夜兼行の掘削作業に追われた。ダイナマイトなどの火薬類が足りず、兵士たちはほぼ手作業で掘り進めた。中川はそういった現場を細かく巡回し、時には自ら作業を手伝ったという。参謀の中には後方で地図ばかり見ているような者もいたとされるが、中川は一貫して「現場主義者」であった。中川は部下たちから厚い信頼を寄せられていた。こうした人間関係を背景として、未曾有の規模を誇る地下陣地は完成した。

そんな中川がもう一つ徹底したことが「島民への疎開指示」であった。当時のペリリュー島には約800人の原住民と、約160人の在留邦人が暮らしていた。中川は彼らに被害が及ばないよう、他島への疎開を命じた。

先のサイパン戦では、戦闘に巻き込まれた多くの住民が崖から身を投げる「バンザイ・クリフ」のような悲劇が生じていた。中川はそのような事態を回避したかったに違いない。

こうして迎えた9月上旬、米軍がついにペリリュー島への大規模な艦砲射撃と空襲を開始。

その攻撃は「島の形が変わる」と言われるほど苛烈なものであった。もし事前に地下陣地が完成していなければ、この攻撃によって日本軍の守備隊は壊滅していたであろう。

同月15日、アメリカの精鋭部隊である第一海兵師団が、ペリリュー島の西浜と呼ばれる

海岸線一帯へと押し寄せた。この浜の米軍側のコードネームは「オレンジビーチ」。ウィリアム・ヘンリー・ルパータス少将率いる同師団は、ガダルカナル島やニューブリテン島などの激戦地を戦い抜いてきた歴戦の部隊であった。

日本軍はそんな米軍の大軍勢に対し、上陸部隊を充分に引き付けた上で激しい砲撃を加えた。それでも米軍の上陸用船艇やアムトラック(水陸両用トラクター)は、次から次へと殺到してくる。やがて海岸線では両軍兵士による白兵戦が始まった。美しい浜辺は、たちまち鮮血にまみれた。

この戦闘において、米軍側が驚いたことが一つある。それは日本軍がそれまでの戦場で見せてきた「バンザイ突撃」を繰り出してこないことであった。日本の軍中央はサイパン戦などの教訓からバンザイ突撃の効果に疑問を抱き、慎重な姿勢を見せるようになっていた。中川はこの意向を現地で部下たちに徹底させた。中川は突撃しようとはやる部隊を諫めつつ、戦線を徐々に海岸線から後退させた。地下陣地を駆使しての持久戦へと持ち込むためである。

日米の精鋭部隊が激突する構図となった戦場は、以降も猖獗を極めた。米軍は自慢のシャーマン戦車(M4中戦車)を揚陸させ、制圧地の拡大を狙った。日本軍も戦車部隊を投入したが、性能の違いは明らかであった。米軍は飛行場に目掛けて戦力を集中し、滑走路の占拠に成功した。

そんな戦場で実際に戦った一人である元陸軍歩兵第二連隊軍曹の永井敬司さんはこう語る。

「怪我を負った兵士が『ウーン』と唸りながら、戦友に『早く殺してくれ』と頼む。戦友は『わかった』ということで、軍刀で突き刺す。それはもうひどい状況でした。腕や足を吹っ飛ばされている兵士もいましたし、頭部がなくなっている死体もありました。『天皇陛下万歳』という絶叫も聞きましたね」

永井さんも右大腿部に重傷を負ったが、その後も戦場を駆けずり回った。やがて水や食糧も底をついた。兵士たちは飢餓に苦しみながらの戦いを余儀なくされた。

そんな戦いの背景にある動機とは何であったのか。永井さんはこう語る。

「日本を護るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子どもを護るため。それ以外にあるはずがないじゃないですか。私たちは『太平洋の防波堤』となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」

太平洋を西進する米軍をこの地で阻止しなければ、フィリピン、台湾、沖縄、そして日本本土へと一挙に邁進してくるのは火を見るよりも明らかであった。祖国、故郷を護るため、多くの兵士たちが戦場に斃れていった。

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