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中川州男とペリリュー島の戦い~バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

2020年07月27日 公開
2023年02月15日 更新

早坂隆(ノンフィクション作家)

サクラ、サクラ、サクラ

そんな日本軍の奮闘は、米軍の将兵たちを驚愕させた。実は当初、米軍側は「戦闘は二、三日で終わる」と予測していたのである。しかし、日本軍の果敢な戦いぶりは、米軍の計画を根底から瓦解させた。米兵の中には深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する者が相次いだ。

戦闘が長期化していく中、昭和天皇からは御嘉賞(御嘉尚)が相次いで贈られた。御嘉賞とは「天皇陛下からのお褒めのお言葉」である。昭和天皇は日々、ペリリュー島の戦況を深く憂慮されていた。昭和天皇はこの時期、毎朝のように、「ペリリューはどうなった」と御下問されたという。結局、御嘉賞は計11回にわたって贈られたが、これは先の大戦を通じて異例のことであった。日本軍が執拗に死守するこの島のことを、米軍側は「天皇の島」と呼ぶようになった。

中川の父親である文次郎が、天皇の「征討の詔」によって賊軍とされた西郷軍側の一員であったことは前述の通りである。その息子が「天皇の島の指揮官」となったことは、日本史の糸が絡み合うような皮肉にも映る。

中川は部下たちを懸命に鼓舞した。傷ついた将兵たちには「ありがとう」「よく戦った」と優しく声をかけた。そんな中で中川は、敵軍の情報を細かく収集し、それらを冷静に分析した上で次々と指示を与えていった。

しかし、日米両軍における戦力の差は埋め難かった。約1万人の日本軍守備隊に対し、増援を続ける米軍の総兵力は延べ約4万2千人にも及んだ。米軍は火炎放射器やナパーム弾といった最新兵器も次々と投入した。

迎えた11月24日、ついに中川率いるペリリュー守備隊はパラオ本島の集団司令部に向けて、訣別を告げる打電を行った。その文面の冒頭は、以下の言葉で始められていた。

 サクラ、サクラ、サクラ。

それは「玉砕」の意味を表す符号であった。古来、日本人は桜の花の潔い散り際に、世上の美と儚さを投影する。

南海の孤島に桜が散った。

中川は地下壕内で自決し、46年間の生涯を閉じた。自決の方法については拳銃説と切腹説があるが、結論は出ていない。中川の遺体は米軍側に発見され、島内に埋葬されたと伝わるが、未だ見つかっていない。

その夜、ペリリュー守備隊は残存兵力で最後の総攻撃を敢行。「天皇の島」はこうして米軍の手に落ちた。

だが、実際の戦闘は、その後も完全には終わらなかった。最後の総攻撃の命令を受領できなかった一部の兵士たちが、そのまま徹底抗戦を続けたのである。その一人であった元海軍上等水兵の土田喜代一さんはこう語る。

「中川大佐が自決したとか、その時は何も知りませんしね。まだまだ戦いは終わっていないと信じていました。今聞くとおかしいと思われるかもしれませんが、その当時は『連合艦隊が必ず助けに来てくれる』と考えていました」

しかし、援軍は来ないまま、昭和20年(1945)8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を玉音放送にて公表。こうして日本史上最大の戦争はようやく幕を閉じた。

だが、こうした終戦の報も、ペリリュー島の地下壕までは届かなかった。土田さんは言う。

「私たちは日本が敗れたことも知らず、ひたすら友軍の助けを待っているような状態でした。『米軍に見つかれば、必ず殺される』と固く信じていました」

土田さんたち残存兵34名が米軍からの呼びかけによって敗戦を知り投降したのは、実に終戦から一年半以上も経った昭和22年(1947)4月のことであった。

戦史叢書によれば、ペリリュー戦における日本軍の戦死者は1万22名。一方の米軍側も戦死者数1684名、戦傷者数は7160名にも及んでいる。この数字は当時、米軍側にとって「建軍以来、最悪」と呼ばれた。

中川が実行した「地下壕を利用しての徹底抗戦」という戦い方は、その後の硫黄島や沖縄での戦闘にも活かされた。一方の米軍側は、日本軍の強靱さについて改めて見直す必要性に迫られた。以降、安易な「本土上陸論」には一定の抑制がかかった。

ペリリュー島という「楽園」での戦いは、日米戦全体の趨勢に大きな影響を与えたのである。

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