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奇蹟の医師・肥沼信次~敗戦後のドイツ、チフスの猛威に立ち向かった「ドクター・コエヌマ」

2020年08月12日 公開

秋月逹郎(作家)

桜

第二次世界大戦末期、ベルリンの北東にあるヴリーツェンの町では、発疹チフスが猛威をふるい、多くの犠牲者を出していた。そこへ、ある日本人医師が現れ、罹患した多くの市民を救ってくれたという。

「コエヌマ」と呼ばれた医師は、設備の整わない施設で、寝る間を惜しんで治療にあたったのだが……。
 

秋月逹郎(作家)
昭和34年(1959)、愛知県出身。映画プロデューサーを経て、平成元年(1989)に作家に転身。以後、歴史を題材にした作品を数多く発表している。著書に『マルタの碑』『海の翼』『海のまほろば』などがある。

 

どこで生まれ、なぜこの町に現れたのか

闇の中に一条の光が射し込み、厳めしい壁を照らした。その浮かび上がった巨壁に鉄鎚が打ち下ろされ、粗大なコンクリートを破壊し始めた。

1989年(平成元年)11月9日、ベルリンの壁の崩壊である。この1年後、東西に分断されていたドイツはふたたび統一されたが、それとともに沈黙するよりほかなかった歴史もまた声をあげるようになった。

ベルリンの北東、ドイツとポーランドの国境付近に位置する古都ヴリーツェンの郷土博物館長ラインハルト・シュモークも、そうしたひとりだった。

シュモークは幼い頃から、とある日本人について聞かされてきた。戦争直後、故郷に伝染病の発疹チフスが猛威をふるっていたとき、どこからともなく現れた日本人が、罹患した市民の多くを救ってくれたのだが、自身も感染して他界してしまったという、まるでゲルマン神話の一節に出てくるような話だった。

その日本人はコエヌマ・ノブツグという医師で、実際に治療を受けたという市民は少なくなかった。ところが、誰もがその名を知っているものの、どこで生まれ、なぜヴリーツェンに現れたのかを知る者は皆無だった。

それではいけないとシュモークは崛起した。われわれは故郷の恩人の経歴を知るべきだ、そのためならわたしは労苦を厭わないと。

「Dr.コエヌマがこの町にやってこられたのは、1945年の夏でした」

そう語ったのは、当時16歳でコエヌマの家政婦をしていたエンゲル・イムガルドである。

「ナチスが降伏して間もなく、ソ連軍がこの町を占領しました。戦車隊の訓練学校があったからです。ですが、ここは当時、発疹チフスが流行していて、とても軍隊が駐屯できるような状況ではありませんでした。ソ連軍は、学校の跡地に医療施設を建設し、感染症を封じ込めようとしました。ところが、医者がいません。ソ連軍の軍医たちは、罹患を恐れて転任を希望したからです。そこで、ソ連軍は医師を探し求め、コエヌマを見つけ出したのです。コエヌマは、ここから25キロ北のエーヴェルスヴァルデにいました」

調べたところによると、1945年3月17日、ドイツ敗北は必至と見た在ベルリン日本大使館は、在留邦人の国外退避を決定、翌日の15時までに大使館へ集合するよう布令した。船便で帰国の途に就かせるためである。シュモークはその予約名簿にコエヌマの名を見つけたが、乗船していなかった。

当時コエヌマは、シュナイダーなる婦人とその娘と3人で暮らしており、エーヴェルスヴァルデに婦人の妹が居て、2人を送っていったらしい。シュナイダーなる婦人は当時32歳で、ドイツ軍人の夫と死に別れ、忘れ形見の娘とベルリンに住んでいた。ふたりがどのような関係だったのかはわからない。

ともあれコエヌマは、拉致されるようにして、急造された医療施設に放り込まれた。所長などと聞こえはいいものの、在留邦人が放り込まれた俘虜収容所と、どちらが衛生的だったか判然としない。コエヌマが目の当たりにしたのは、この世の地獄だったからだ。

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