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奇蹟の医師・肥沼信次~敗戦後のドイツ、チフスの猛威に立ち向かった「ドクター・コエヌマ」

2020年08月12日 公開

秋月逹郎(作家)

贈られた100本の桜の木

肥沼信次は、1908年(明治41年)10月9日、東京府八王子町に生まれた。父は元軍医で、外科医院を開業しており、信次も医学を志した。ベルリンに留学し、感染症においては最先端を謳われたロベルト・コッホ研究所に入所。その後、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現・フンボルト大学)医学部放射線研究室の研究員となり、フンボルト財団の研究奨学生に選ばれた。ヴィルヘルム大学では、東洋人として初めて教授資格も取得した。

ところが、洋々たる前途は、そこで途切れた。西から米軍を中核とする連合軍、東からソ連軍がドイツに雪崩れ込んで、ベルリンは陥落、信次は行方不明者となり、無念の死を迎えてしまったのである。

家族は信次の身を案じ続けていたが、無情な報せが、1952年(昭和27年)に届けられた。そこには「1946年(昭和21年)に発疹チフスで死亡した」と記載されているだけで、死亡したときの状況もわからないままだった。

ようやく兄の消息を知った栄治は、ヴリーツェンの人々と交流し始めた。最初に動いたのは、フンボルト財団である。

財団は、1993年(平成5年)に『肥沼信次』と題してその業績を纏めた。当時、研究奨学生は累積1万6000人を超えていたが、冊子にされたのは信次ただひとりだった。続いて翌年7月、ヴリーツェンで、肥沼信次博士記念式典が開かれ、伝染病医療施設を改築した市庁舎の正面入口に記念の銘板が掛けられた。

このおり、栄治からは百本の桜の苗木が贈られた。信次はふとしたときに、かならず富士山と桜の話をしたという。日本には四季があり、学業の大切な節目に桜を見上げる。儚く散る桜に、匂い立つ桜に、卒業と入学の感慨を抱き、新たな人生に想いをいたすのだと。

その後、故郷の八王子とヴリーツェンの両市には深い絆が結ばれた。ヴリーツェン市にある小中高一貫の学校・聖ヨハニッターギムナジウムは、八王子学園と姉妹校提携を交わし、2017年(平成29年)には、ヴリーツェン市と八王子市が友好交流協定を締結した。

同年9月、信次の実家近くの公園に、顕彰碑が設置された。その顕彰碑には「お帰りなさい Dr.肥沼」と刻まれている。

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