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信長と帰蝶 若き日の姿を名古屋に求めて

2020年10月13日 公開
2022年11月16日 更新

『歴史街道』編集部

 

輿入れした帰蝶は何を思ったか

さて、信長が那古野城主となったころ、父・信秀は東に今川義元、北に斎藤道三という敵を抱え、苦戦を強いられていた。

そこで浮上したのが、美濃国・斎藤家との和睦案であった。ここで登場するのが、帰蝶である。斎藤道三の娘・帰蝶が信長に嫁ぐことによって、両家の和睦は成った。

『美濃国諸旧記』によれば、帰蝶は天文18年(1549)2月、当時、古渡城にいた信長のもとに輿入れしたという。時に信長16歳、帰蝶は15歳とされる。

現代でいうと中学生の年ごろの帰蝶は、異国に嫁いできて、どんなことを思ったのだろうか。織田家と斎藤家との紐帯を示すための婚姻であり、重責を感じていたことだろう。

一方で、『信長公記』には、帰蝶の嫁いだころの信長の様子が書かれている。

それによると、身なりと町を歩く時の振る舞いが奇矯だったため、信長は「大うつけ」といわれていたという。帰蝶はそんな夫の姿を、どんな思いで見つめていたのだろうか。


[左]古渡城址(名古屋市中区)/[右]末森城址(名古屋市千種区)

古渡城の跡地は地下鉄・東別院駅から徒歩3分ほどで、現在は東別院が建ち、境内に「古渡城趾」の碑が建つ。この城は、信長が13歳で元服した場所でもある。

こうして夫婦として歩み始めた二人だが、その数年後、立て続けに大事な人の死に見舞われる。天文21年(1552)3月、信秀が末森城で死去するのである。

末森城の跡地は、地下鉄・本山駅から徒歩6分ほどで、現在は城山八幡宮が鎮座し、境内に「末森城址」の碑が建つ。信長と帰蝶も、信秀を見舞いに訪ねたのだろうか。

写真5:万正寺
万松寺(亀嶽林 萬松寺:名古屋市中区)

信秀の葬儀は、万松寺で執り行なわれたが、この時、信長は葬儀に相応しくない身なりで現われ、仏前に抹香を投げつけたという。葬儀に参列したであろう帰蝶も、夫の思わぬ行動に驚いたのではないか。

万松寺へは、地下鉄・上前津駅から徒歩3分ほどで、信秀の墓碑もあるので、訪ねて手を合わせるのもいいだろう。

さらに信秀の死後、翌天文22年(1553)閏1月、信長の傅役・平手政秀が自害する。うつけぶりを改めようとしない信長を、諫めるためともいわれている。平手は帰蝶の輿入れに尽力した人物でもあり、帰蝶もその死に衝撃を受けたに違いない。

写真6:平手政秀邸
平手政秀邸城跡(名古屋市北区:志賀公園内)

平手の邸跡は、地下鉄・黒川駅から徒歩13分ほどで、現在は志賀公園として整備され、園内に「平手政秀邸址」の碑が建つ。

写真7:政秀寺
政秀寺(名古屋市中区)

信長も平手の死を悔いたのであろう。平手を弔うため、政秀寺を建立している。寺は地下鉄・矢場町駅から徒歩5分ほどである。

平手の死からわずか数カ月後のこと。その死も影響したのかもしれないが、かねてから信長のうつけぶりを耳にしていた道三が、実状を確かめるべく、信長に会見を申し入れてきた。この時、信長は見事に対応し、道三から才覚を認められる。帰蝶もようやく、胸をなでおろしたにちがいない。

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