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米英と並び「世界三大海軍国」と賞された日本海軍は、なぜ太平洋戦争で負けたのか



2020年10月22日 公開

戸高一成(呉市海事歴史科学館<大和ミュージアム>館長)

日本海軍はなぜ負けたのか

日清・日露戦争で勝利し、米英に並ぶ「世界三大海軍国」となったが、第二次世界大戦では完膚なきまでに敗れた日本海軍。昭和の海軍は、それまでと何が違ったのか。その実力を組織、教育、技術の面から検証するとともに、どこに問題があったのかに迫る。

※本稿は、『歴史街道』2020年11月号の特集「『昭和の日本海軍』光と影」から一部抜粋・編集したものです。

 

昭和に入り、海軍はどう変わったのか

昭和時代と明治時代の海軍を比較すると、明治の頃の海軍は、とても小さかった。軍艦にしてもほとんどを輸入し、ひたすら勉強して上を目指す、「発展途上海軍」だった。

大きな転換点は、明治37年(1904)に起こった日露戦争である。国力が20倍ほども違うロシアを相手にして、日本は勝った。とりわけ、日本海海戦の勝利は目覚ましいものだった。

「これはいけるぞ」と、海軍が自信をもったのは無理からぬところだが、問題だったのは「恩賞バブル」とでも表現すべき、「一時金ならびに叙勲のばらまき」である。

特に目立つのは、「名誉」という褒賞だ。海軍では艦隊長官クラスの多くが華族になったが、これによって軍人に、「戦争は、名誉への近道」という刷り込みがされてしまう。

そういう潜在的な体質ができていく中で、世代交代が進んでいき、太平洋戦争が始まる頃、指揮官で国家戦争の実戦経験のある人は、ほぼいなくなっていた。

連合艦隊の将官で日露戦争を経験しているのは、山本五十六ただ一人。その山本も、当時は再若年の少尉候補生だった。その他に国家戦争を経験したのは、第一次世界大戦でヨーロッパに派遣された者がわずかにいるだけだ。

もちろん、支那事変で戦闘は経験してはいる。ただし、一部の陸戦隊と中国のジャンク船などを相手にした程度の戦闘である。

アメリカやイギリスの艦隊と戦えるような日本の軍艦が出てくると、当然、相手は逃げる。それが繰り返されるうちに、若い士官などに「無敵意識」が自然と養成された。

 

階級重視…役人思考の「海軍組織」

具体的に昭和の海軍を検証していこう。

日本の陸海軍は制度上、指揮系統がシンプルである。軍隊の最上位は天皇であり、以下、階級順で命令が伝達される。

階級が上の者が下の者を指揮し、同じ階級だった場合は、先任者、つまり海軍ならば士官名簿で上の者が下の者を指揮する。逆に、自分より上の階級、自分の先任者は指揮できない。これが過度なほど厳密に運用されたため、人事上で障害をもたらした。

日本の海軍は、兵学校卒業が同期の人間は、階級を三つ以上離さなかった。

仮に一人が大将になったら、同期の人間はみんな少将になれる(ただし、少将になるだけの能力がない人間は、大佐で予備役になる)。一人が出世したら、周囲の人間にも少しお愛想したわけで、「誰々のご相伴で進級した」という者は、たくさんいた。

これは「平時的な配慮」としては有効かもしれないが、戦時にもち込まれたことで問題となった。

その点、アメリカ海軍には「配置階級」とでもいうような制度があり、艦隊長官を命じられると大将になり、辞めると元の階級に戻るのだ。そういうフレキシブルな体制が日本では実現せず、平時のままの制度で戦時を押し切ったことは、多大な弊害をもたらしたといえよう。

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