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これだけは押さえておきたい「日米中の歩み」



2020年11月21日 公開

河合敦(歴史研究家)

これだけは押さえておきたい「日米中の歩み」

アメリカ大統領選挙の動向を受け、日本、アメリカ、中国のこれからの関係に関心を持つ方は多いことだろう。実際、近現代史においても、日米中の三国関係は一様ではなく、時に接近し、時に対立するなど、時代とともに変化してきた。将来を考えるためにも、押さえておきたい三国の関係史を概説しよう。

【河合敦 PROFILE】昭和40年(1965)、 東京都生まれ。第十七回郷土史研究賞優秀賞、 第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。 現在、多摩大学客員教授。

※本稿は、『歴史街道』2020年12月号の特集「日本と米中の近現代史」から一部抜粋・編集したものです。

 

日本開国、朝鮮と琉球をめぐる摩擦、そして日清戦争へ

嘉永6年(1853)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、強く江戸幕府に開港を迫ってきた。老中の阿部正弘は翌年、国際情勢をかんがみて、周囲の反対を押し切り日米和親条約を結び、下田と箱館を開港した。

こうして日本は、アメリカによって鎖国と呼ばれる外交政策の大転換を余儀なくされ、国際社会に引きずり出されたのである。

アメリカが開港を求めたのは、捕鯨船と米清(中国)貿易の船舶の寄港地として、日本が必要だったからだ。

4年後の安政5年(1858)、日米修好通商条約が結ばれたが、その内容はアメリカの領事裁判権を認め、日本の関税自主権が欠如した不平等なものだった。

その後、続けざまに列強から同様の条約を強要され、貿易が始まると諸物価が高騰したこともあり、攘夷運動が激化。それが一因となって、幕府は倒壊した。

明治政府は欧米の植民地に転落しないよう、富国強兵に全力を注ぐとともに、不平等条約の撤廃を最大の指針として対欧米外交を進めていった。一方、清国に対しては欧米同様、高圧的な姿勢でのぞむ方針をとった。

とくに清国との外交上の懸案が、琉球と朝鮮の問題だった。

江戸時代、琉球王国は薩摩藩が支配していたが、貿易の利益を得るために、あえて琉球を清国に朝貢させてきた。このため日本が琉球を併合する方針をとると、清国は強く反発した。

明治4年(1871)、琉球漁民が台湾の住人に殺害されると日本は清国に賠償を求めたが、拒絶されたため台湾出兵を断行。その後、清国が賠償金の支払いに同意したので、「清国は琉球の人々を日本人と認めた」と判断。明治12年(1879)、軍隊を派遣して強引に琉球を併合した(琉球処分)。

ところが、清国はこれに強く反発。そこで政府は翌年、先島諸島を割譲するかわりに、対等だった日清修好条規(明治4年に結ばれた国交樹立条約)を、日本に有利な条約に変えることを提案した。清国も了承して仮調印にまで進んだが、その後、交渉は決裂した。もし正式に調印されていたら、沖縄県の先島諸島は中国の領土となっていたわけだ。

また幕末以来、日本は膨張するロシアを恐れ、朝鮮を開国させて、共にロシアの南下を防ごうと考えた。そして明治9年(1876)、朝鮮に圧力をかけ、不平等な日朝修好条規を結んで開国させた。条約には「朝鮮国ハ自主ノ邦(国)」という一文が明記されたが、これは、朝鮮を清国の冊封下(属国)から離脱させるためだった。

しかし清国軍は、朝鮮の国内の政争にたびたび介入し、親日勢力を一掃した。

そこで伊藤博文は清国の李鴻章と交渉し、「朝鮮から日清両軍は撤兵し、出兵する際は事前に通告する」という天津条約を結び、以後、日本は急激な軍拡を進めた。朝鮮を自国の影響下に置くには、清国に戦争で勝つしかないと考えたのだ。

明治27年(1894)、朝鮮で東学党の乱が拡大し、朝鮮政府の求めで清国が出兵すると、日本も居留民保護を名目に大軍を派遣。こうして両軍が半島で衝突し、日清戦争が始まった。

戦いは、兵の士気や兵器に優る日本軍が圧勝。翌年、下関(日清講和)条約が結ばれ、清国は朝鮮を独立国と認め、日本に台湾・澎湖諸島を割譲、賠償金2億両(約3億1000万円)を支払った。

 

日露戦争後の中国をめぐる日米角逐の始まり

こうして清国の弱体ぶりが明らかになると、列強による中国侵略が激化。とくにロシアは満洲(州)一帯を占領、朝鮮には親露政権をつくった。

危機感を抱いた日本は、日英同盟を結んでロシア勢力を朝鮮から撤退させようと交渉したが、国内では主戦論が高まり、その声に押されるかたちで日露戦争の火蓋が切られた。

この戦いで全面的に日本に協力してくれたのが、アメリカだった。

アメリカは中国への進出競争に出遅れており、日本勝利の暁には利権の分け前にあずかろうと考えていた。実際、日本政府はアメリカの鉄道王・ハリマンに、満洲の鉄道を合同で経営する約束をしていた。

それもあって、ローズヴェルト大統領が日露間の仲介の労をとり、ポーツマス(日露講和)条約が結ばれたわけだが、戦後、日本は約束を破り、ロシアから獲得した南満洲の利権を独占した。これにアメリカ国民は激怒。日本人移民を排斥するなど反日気運が高まり、以後、日本が中国に勢力を伸ばすたびに反発するようになった。

日露戦争後、日本は朝鮮を植民地とするなど、帝国主義国家として歩み、第一次世界大戦中の大正4年(1915)、中国の袁世凱政府に、21箇条の要求を無理やり受諾させた。そこには、満洲権益の強化や山東省におけるドイツ利権の継承など、日本にとって有利な条項が多く含まれていた。

これにアメリカが反発すると、日本はアメリカの主張する「中国における領土保全・門戸開放」の原則を受け入れ、同時に中国での日本の特殊権益を認めさせた(石井・ランシング協定)。

すでに世界一の経済大国だったアメリカは、大戦中の軍拡により世界最大の軍事大国にもなり、国際社会を牽引するようになった。

第一次大戦後、アメリカはヨーロッパでの国際平和維持体制(ヴェルサイユ体制)を構築し、さらにアジア・太平洋地域での軍拡競争を終わらせるべく、列国を招集してワシントン会議を開いた。

会議では海軍軍縮条約などが結ばれ、平和体制(ワシントン体制)が確立。日本でも幣原喜重郎外相が中心となり、英・米と協調し、中国の主権を尊重しつつ、日本権益の維持をはかる、いわゆる幣原外交が展開された。

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