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能登・七尾城 ~"軍神"上杉謙信をうならせた難攻不落の堅城

2020年12月30日 公開

鷹橋忍(作家)

七尾城本丸跡
七尾城本丸跡(石川県七尾市)

天正4年(1576)、織田信長との対決を決意した上杉謙信の前に、難攻不落の城が立ちはだかった。能登の七尾城である。

攻城戦は約1年の長きにわたり、信長の援軍派遣により、事態は風雲急を告げる。

その時、謙信は起死回生の一手を打った──。

鷹橋忍(作家)
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。 洋の東西を問わず古代史・中世史の文献について研究している。 著書に『城の戦国史』『滅亡から読み解く日本史』などがある。

 

祖父と父の悲願か…謙信、北陸の巨城へ

上杉謙信の晩年の戦いというと、「手取川の戦い」は有名だが、「七尾城の戦い」はあまり知られていないのではなかろうか。では、七尾城の戦いとはいかなる合戦なのか。

まず、七尾城(石川県七尾市)とは、能登畠山氏が居城とした巨大な山城である。全国屈指の規模を誇り、南北約2.5キロメートル、東西約1キロメートル、面積は約252.6ヘクタールにもおよぶ。

巨大な惣構えが敵の侵入を阻み、そのうえ山麓から山頂までは曲がりくねった険しい山道を登らねばならないという、攻めにくいことこの上ない城だ。

本丸は標高300メートルを超える急峻な尾根筋に築かれ、能登支配には欠かすことのできない七尾湾や、能登半島を一望できる。

山頂には、朱や青で塗り重ねられた畠山氏の華麗な御殿が翼を広げたように建ち、城内には、遊佐氏、温井氏、長氏などの重臣もそれぞれ屋敷を構えていた。城の麓には城下町七尾が築かれ、城下町から一里にわたって続く町並みは「千門万戸」と謳われた。

「七尾城の戦い」とは、この七尾城を舞台に天正4〜5年(1576〜1577)に繰り広げられた、上杉謙信と能登畠山氏の1年近くにもおよぶ攻城戦である。

謙信は、武田信玄との死闘ばかりが注目されがちだが、信玄が没した後には積極的に西へ向かって兵を進めている。北陸侵攻も、永禄3年(1560)を皮切りに、11回を数えた。

謙信の祖父の能景と父の為景も、越中へ侵攻している。謙信にとって北陸侵攻は、祖父と父から受け継いだ悲願だったのかもしれない。

一方、織田信長も、天正元年(1573)に越前の朝倉氏を滅ぼし、天正3年(1575)8月には越前一向一揆を殲滅するなど、北陸への圧迫を強めてきた。

謙信と信長は、一時期、同盟を結んでいた。武田氏牽制のため、お互いを必要としたのだ。

やがて、信玄も亡くなり、加賀と能登が上杉と織田の争奪地となっていく。もともと謙信には、信長が対武田への軍事協力に応じてくれないという不満もあったという。こうなると、謙信と信長が対決するのは必然だろう。

謙信は天正4年5月、加賀・越中の一向一揆と和睦し、6月に信長と断交する。

こうして謙信は、越中・能登への侵攻を開始し、信長と北陸の覇権を争うことになった。

同年の8月末には越中に出陣し、増山城、栂尾城、森寺城を攻略。9〜10月にかけて越中を平定したのちは、能登の要である七尾城攻略を目指す。「七尾城の戦い」の幕開けである。

 

攪乱、急襲、反撃…一進一退の攻防

能登畠山氏は、かつては能登・越中を支配し、その権勢を頼って、応仁の乱で荒廃した都を逃れた京都の文化人たちが訪れ、「畠山文化」と呼ばれる京風文化が花開いたほどの栄華を誇った。

しかし、天文20年(1551)ごろから「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちに実権を奪われ、畠山氏当主は傀儡と化した。天正2年(1574)に、畠山義慶が、重臣による暗殺も囁かれる死を遂げて以降は、誰が畠山氏当主の座に着いたかさえ、はっきりしないほどだ。

ゆえに「七尾城の戦い」当時の当主も諸説あり、「畠山義隆」とする文献もある。だが、ここでは一般に知られる「畠山春王丸」説をとろう。

幼少の春王丸は、あきらかな傀儡の当主だった。実権は、長綱連、遊佐続光、温井景隆の三氏が握り、とりわけ、長氏、遊佐氏が有力だった。

謙信はその状況を利用し、能登侵攻の大義名分に「重臣の専横を排除し、越後に人質として赴いていた上条政繁(諸説あるが『新修 七尾市史』では能登畠山出身者としている)を、能登畠山氏の家督につける」ことを掲げた。

七尾城の重臣たちは、謙信の介入を拒否し、対決姿勢を示す。長綱連は、土川村の豪農小森氏、長浦村の徳昌寺などに一揆を起こすように扇動し、謙信の背後の攪乱を謀った。

ところが、謙信のほうが一枚も二枚も上手だった。謙信は逆にそれらを急襲し、全滅させた。そのうえで、石動山城に本陣を置き、七尾城を包囲する。

重臣たちは協議を重ね、七尾城での籠城を選んだ。

「軍神」と呼ばれる謙信も、難攻不落の天然の要塞には迂闊に手を出せない。戦況は膠着し、謙信は能登で越年した。

年が明け天正5年、謙信は矛先を変え、能登半島北部に侵攻した。富木城、熊木城、穴水城などの諸城を次々と攻略し、上杉の将を配置していく。これにより七尾城は孤立し、心理的に追い詰められていったに違いない。

3月になると、謙信のもとに「北条氏政が越後に侵攻する」との情報が舞い込んだ。謙信は、いったん帰国の途についた。

謙信が能登を去った隙を突き、七尾城側は反撃に転じた。長綱連ら七尾城の将たちは、上杉側に奪われた富木城、熊木城を奪還し、穴水城を包囲する。

だが、反撃の時間は短かった。同年閨7月、謙信が再び能登へ出陣してきたのだ。

軍神が戻ってきたとあっては、籠城しか策はない。各城の将は七尾城を目指した。

穴水城を攻めていた長綱連は、撤退の途中、敵将の激しい追撃に遭い、多大な犠牲を払いつつ、命からがら七尾城に帰還する。

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