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品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた

2020年12月24日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

岩村城
岩村城跡に残る石垣。岩村城は明治維新後に廃城とされるまで存続していた(岐阜県恵那市)

浅井・朝倉や本願寺との戦いで、時に敗れ、時に絶体絶命の窮地に陥ったこともあったが、織田信長はそれ以外でも、数多くの戦で敗れている。

ここでは、若き日の完全敗北から、天下布武への道における躓きまで、信長の負け戦を紹介しよう。

【楠戸義昭(作家) PROFILE】
昭和15年(1940)、和歌山県生まれ。立教大学社会学部を卒業後、毎日新聞社に入社。学芸部編集委員などを歴任後、作家活動に専念。 『戦国武将名言録』『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』『激闘! 賤ヶ岳』など、著書多数。最新作に『女たちの本能寺』がある。

 

25歳、初めての負け戦…品野城の戦い

織田信長が紅筋の頭巾に馬乗り羽織の装いで、颯爽と三河吉良大浜に初陣したのは14歳の時。そして尾張品野城(愛知県瀬戸市)で初めて完全敗北を喫したのは、永禄元年(1558)3月、信長25歳のことだった。

この戦いは同年、17歳で初陣した徳川家康と絡む。家康は今川義元の命で岡崎に帰り、岡崎衆を率いて2月5日、信長方に鞍替えした三河寺部城(豊田市)の鈴木重辰を攻め、城から追い出した。今川氏に虐げられ続けてきた岡崎衆は、「若殿の初陣」と勇戦した。

さらに『改正三河後風土記』によれば、家康の叔父で石ケ瀬城(大府市)の水野信元は信長方だったが、家康に攻撃されて敗れ、それによって多くの国人が今川方となった。

信長は水野信元の敗北を見過ごせず、家康の一族、松平家次が籠る品野城を兵1千で囲み、向城を構え、三日三晩攻め立てた。だが城方の岡崎衆も意気盛んで、信長軍に180余人の死者が出たが、信長は包囲網を解かなかった。

一方、城方は食糧に困窮しはじめる。3月3日、激しい風雨となったが、家次はこれを千載一遇の好機として、合詞相符を定めて夜討ちを敢行する。向城に潜入して陣屋に放火、煙の中より250が喚声とともに突入した。

武具を脱ぎ、帯紐を解いて、寝入っていた信長方は不意を突かれて狼狽し、弓よ太刀よとひしめくところを斬り伏せられ、また同士討ちして、屈強な士50余人が枕を並べて討ち死に。残る将兵たちは這々の体で柵を越え、堀を渡って敗走した。

家康を守り立てる岡崎衆の大勝利だった。岡崎の将士は駿河に赴き、この功をもって、義元に家康の三河帰還と駿府兵の岡崎撤退、また旧領の返付を願ったが許されなかった。

信長が桶狭間で義元の首を取り、家康が今川氏から解放されるのはこの2年後であり、信長と家康はその後、終始同盟関係を維持する。

この時の敗北に信長が学んだ戦いは、浅井長政の小谷城攻めである。小谷城を援けに来た朝倉軍が布陣する大嶽山を、信長自ら親衛隊を率い、風雨をついて夜襲をかけた。

これがきっかけとなり、朝倉軍は一乗谷へ立ち退く。それを信長軍が追撃して朝倉義景を死に追いやり、すぐ小谷城に引き返して浅井氏を滅亡に追い込んだのである。

 

斎藤に"前代未聞"の大敗を喫した…河野島の戦い

斎藤道三が弘治2年(1556)4月に息子義龍と戦った際、信長は義父である道三を救援しようと、木曽川を越えた。しかし義龍方に阻まれるうちに、道三が討ち死にしてしまい、兵を返す。

この時、義龍軍の襲撃を受けたが、信長自身が殿をつとめて窮地を脱した。これ以来、美濃攻略を目指す信長は、義龍・龍興父子に散々に苦汁をなめさせられた。

『総見記』によれば、永禄3年(1560)5月に桶狭間で今川義元の首を取った信長は、勢いに乗って翌月、美濃に侵攻するも敗退。さらに、2カ月後に再び攻めたが敗れたという。

だが翌年5月、義龍が急逝すると、信長は攻勢に転じ、西美濃に攻め込む。森部の戦いに勝って墨俣砦を奪い、続く戦いにも勝利する。一方で美濃の国衆は団結しており、後を継いだ龍興も手強く、稲葉山城下に侵入するも敗れるなど、一進一退の攻防を繰り返した。

その中でも、潰走ともいえる敗北を喫したのが、永禄9年(1566)の河野島の戦いだった。この戦いは品野城の戦い同様に『信長公記』に記述はなく、斎藤氏老臣の連判状(『中島文書』)でしか知りえない。

信長は8月29日に渡河し、乱流する川を挟み龍興軍と、現在の岐阜県各務原市にあった中洲、河野島に陣して対峙した。ところが荒天となって木曽川は増水し、身動きがとれず戦いどころではなくなった。兵糧も尽きはじめていたに違いない。

そこで閏8月8日未明、信長は無理に川を渡って撤退をはじめる。だが水流は思いのほか強く、多くが溺れ流された。また岸辺に辿り着いた兵は先回りしていた龍興軍に討たれ、生き残った者も兵具を捨てて逃げる有様だった。

信長軍の大負けを、斎藤側史料は前代未聞のことと、誇大に伝えている。

だが信長は、同じ失敗を二度繰り返さない男だった。家臣の羽柴秀吉が、臍までいれた組み立て直前の木材を上流から流し、大工を集団移送して、墨俣に橋頭保を築いて、稲葉山城を攻略。龍興を追放し、美濃をわがものにしたのは、河野島での敗北の翌年8月であった。

 

武田二代に苦杯を喫し...岩村城・明知城の戦い

現在の岐阜県恵那市・中津川市を中心にした東美濃には、遠山氏(祖は源頼朝の重臣加藤景廉)が岩村城を本拠として十八支城を築いて勢力を誇示していた。この地に、敵対する信長と武田信玄の熱い視線が注がれる。両者にとって、互いの地に攻め込める要地だったからだ。

信長は岩村城主の遠山修理亮景任の妻に、叔母を送り込む。その景任が結婚2年で病没すると、子のいなかった景任の養嗣子として五男御坊丸を入れ、叔母に後見させた。

これを黙認するわけがない信玄は元亀3年(1572)、上洛の途上、三方ヶ原で家康と織田の援軍を撃破した際、秋山虎繋を主将とする別働隊に、岩村城を攻めさせた。信玄の上洛に信長は岩村城を救うどころではなく、孤立無援となった岩村城は支え切れずに開城した。

だが城将となった虎繋は、40歳位とはいえ容姿の衰えない信長の叔母を見初め、あろうことか結婚。御坊丸は甲府に人質として送られてしまう。

時に信玄が急逝するが、息子勝頼も強敵で、信長は地団駄を踏むだけで手出しできなかった。

それどころか2年後の天正2年(1574)1月、岩村城を足場に南西9キロにある織田方の明知城を、山県昌景率いる1万5000の兵が襲撃した。

信長・信忠父子はただちに出馬するが、『信長公記』によれば、明知城に向かう山中の道は険しく、自由に馬も操れず苦闘する。そうした中、明知城内では守将の飯羽間右衛門(遠山氏一族)が謀反。城はすでに落とされたとの知らせに、信長軍は打つ手なく撤退した。

しかも3カ月後、勝頼は南遠江の高天神城(静岡県掛川市)に現れ、父信玄も落とせなかった堅牢な山城を攻略した。家康の求めに応じ信長自らが出陣したが、途中で敗報に接し、ここでも勝頼に苦杯を喫したのだ。

この借りを倍返ししたのが長篠の戦いで、天正3年(1575)、3000丁の鉄砲で武田騎馬軍団を壊滅させ、勝頼の力を完全に削いだ。そしてただちに信忠を岩村城に向かわせて攻略し、信長は東美濃をその掌中に納めたのである。

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