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栃木の小大名が幕府から厚遇されていた理由…下野・喜連川に受け継がれた「足利の血脈」

2021年01月23日 公開
2022年10月24日 更新

早見俊(作家)

 

絶体絶命の窮地に陥るも古河公方として再興

足利尊氏は貞和5年(1349)、四男基氏を鎌倉に派遣、関東十カ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、伊豆、甲斐)を管轄する鎌倉府を統括させた。鎌倉府を治める長は鎌倉公方と称される。

以後、基氏の子孫が鎌倉公方を受け継いだが、次第に独立色を強め、都の室町将軍と対立してゆく。

対立は持氏の代に至って極まった。この頃、都では足利義教が将軍となった。義教は比叡山延暦寺の貫主天台座主であったが、五代将軍義量の死に伴い、義量の四人いた弟の中から籤引きで六代将軍に選ばれたのだ。

持氏は四代将軍義持の猶子になっており、自分こそが六代将軍と思っていたため不満を持ち、祝いの使者を送らなかった。こうした反抗的な持氏の態度を、義教は嫌悪し、さらに、専制的政治姿勢を強めて持氏討伐に動く。

持氏は討伐軍との合戦に敗れ、永享11年(1439)2月、自害した。嫡男義久も自刃したのだが、3人の遺児、春王丸、安王丸、万寿王丸は難を逃れた。

空位となった鎌倉公方に、義教は息子を就けようとする。これに反発し、翌永享12年(1440)、下総の結城氏朝が三人の遺児の内、春王丸と安王丸を奉じて決起した。

反乱は1年後に鎮圧され、春王丸と安王丸は処刑された。基氏以来の鎌倉公方の血を受け継ぐ者は、万寿王丸一人となる。

絶体絶命の窮地に立った鎌倉公方家であったが、僥倖に救われる。春王丸、安王丸の死から1カ月程後、義教が有力守護赤松満祐に謀殺されたのだ。

義教の死が鎌倉公方再興のきっかけとなり、関東の諸将から室町幕府に嘆願が始められた。また、万寿王丸は信濃佐久郡の豪族大井持光に匿われ、宝徳元年(1449)に元服、八代将軍義成(後の義政)の偏諱を受け、成氏と名乗る。

同年、再興運動は実り、成氏は鎌倉公方として鎌倉に帰還した。父と兄たちの無念を晴らしたのだったが、喜びは続かなかった。

父持氏に近かった諸将と、関東管領家山内、扇谷両上杉家の対立が生じたのだ。対立が続く中、享徳3年(1454)、成氏は関東管領上杉憲忠謀殺を機に、上杉氏との合戦を繰り広げる。

緒戦は優勢であったが、室町幕府が成氏追討を決めたため劣勢に立たされた。享徳4年(1455)には、遠征中を今川範忠勢につかれ、鎌倉を失った。成氏は下総古河の鴻巣に本拠を移す。古河公方の誕生である。

 

古河公方と小弓公方の争い、そして喜連川藩の誕生

鎌倉公方足利家嫡流の血筋は、成氏が創設した古河府で受け継がれてゆくが、三代高基に至ったところで内紛が起きた。

高基の弟で僧侶となっていた空然が還俗し、義明を名乗る。義明は上総国の豪族、真里谷信清に擁立され下総小弓城に入り、小弓公方を名乗った。永正15年(1518)のことである。古河公方家は分裂した。

古河公方家が争いを繰り広げている間、南関東では北条氏が勢力を拡大していた。

北条氏に目をつけた四代古河公方晴氏は、早雲の後を継いだ氏綱と同盟を結び、義明を滅ぼすことに成功した。あっけなく滅んだ小弓公方家であったが、義明の次男頼純は、安房の里見氏に庇護されて生き延びる。

一方、小弓公方を滅ぼした晴氏は北条氏との関係を深め、継室に氏綱の娘を迎えたものの、氏綱の後継者氏康と対立、上杉氏と共に天文15年(1546)、北条の領地に侵攻、世に言う河越夜戦で大敗を喫した。

晴氏は息子義氏に古河公方の座を譲り、氏康によって相模国波多野に幽閉された。古河公方は北条の傀儡と成り果てる。

義氏は氏康の娘と結婚、氏姫をもうける。氏姫とは、足利家の嫡流の姫という意味で名前は伝わっていない。その氏姫が義氏の死により、天正11年(1583)、9歳の幼さで古河公方家の当主となった。

やがて天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により北条家は滅亡、氏姫は秀吉に所領のほとんどを召し上げられ、僅か三百石の領主として古河鴻巣御所で暮らす。

すると、意外な展開が待ち受けていた。里見氏に匿われていた小弓公方義明の次男頼純が小弓城を奪還、娘の嶋子を秀吉の側室に差し出したのだ。

嶋子は絶世の美女と伝わっており、美人に目がなく、尚且つ名家に弱い秀吉の寵愛を受ける。嶋子は古河公方家再興のため、弟の国朝と氏姫を夫婦にして欲しいと秀吉に頼む。

秀吉は、翌天正19年(1591)、二人を夫婦とし、喜連川の地に3千5百石の領地を与えた。これを機に国朝は足利姓から喜連川姓に改名する。

氏姫はこの結婚に不服だった。小弓公方家は庶流、本家たる古河公方家の血筋を受け継ぐ自分が風下に立つのは嫌だと、鴻巣御所から喜連川に移らず、喜連川姓も名乗らなかった。

そんなすれ違いの夫婦生活が続く中、国朝は病死、氏姫は舅頼純に国朝の弟頼氏と再婚させられる。足利家嫡流の血筋を伝えねばという使命感に至ったのか、頼氏との間に一男一女をもうけた。

秀吉死後、関ヶ原合戦において頼氏は家康に戦勝祝いを送った。新田源氏の末裔を自称する家康は、正統な足利家の末裔たる喜連川家を厚遇、千石を加増し、ここに喜連川藩が誕生した。江戸時代中期、寛政元年(1789)、5百石が加増され5千石となる。

氏姫は頼氏と再婚後も鴻巣御所に住み続け、生涯を終える。名もなき姫が頑なに拘った鎌倉公方足利家嫡流の誇りは、喜連川藩に連綿と受け継がれた。明治新政府の下、十三代藩主聡氏が版籍奉還し、喜連川姓から足利姓に戻したのはその表れかもしれない。

 

◆年表 喜連川足利家への流れ

和暦 西暦 出来事
貞和5 1349 足利基氏が鎌倉公方になる
永享11 1439 永享の乱で、足利持氏が自刃
永享12 1440 結城合戦
宝徳元 1449 鎌倉府再興、足利成氏が鎌倉公方に
享徳3 1454 享徳の乱
享徳4 1455 成氏が下総古河へ(古河公方)
長禄2 1458 足利政知が伊豆へ(堀越公方)
明応2 1493 堀越公方が滅亡
永正15 1518 足利義明、小弓城へ(小弓公方)
天文7 1538 国府台合戦で義明が討ち死に
天文15 1546 河越夜戦で足利晴氏が敗れる
天正19 1591 豊臣秀吉が足利国朝と氏姫の縁組を決め、喜連川の地を与える
慶長5 1600 関ケ原の合戦。足利頼氏、徳川家康から喜連川の地を安堵される

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