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各地に残る明智光秀「生存伝説」…未だ謎が残る“山崎合戦”敗北後の足取り

2021年02月16日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

琵琶湖のほとりにある現在の坂本城址(滋賀県大津市)
琵琶湖のほとりにある現在の坂本城址(滋賀県大津市)

明智光秀は死んではいなかった──。山崎合戦に敗れたあと、落ち武者狩りに遭い、命を落としたといわれている明智光秀。しかし各地には、「光秀生存伝説」がまことしやかに伝わっている。

影武者がいたという説や、実は素性を隠し、家康のブレーンになっていたという説も……。

※本稿は、『歴史街道』2021年2月号より、内容を一部内容を抜粋・編集したものです。

 

「歯痛が治るであろう」と言い置いて立ち去った?

山崎合戦に敗れた明智光秀は、落ち延びる途中の小栗栖(京都市伏見区)で、土民に槍で脇腹を突かれ、そのまま3町(327メートル)ほど走って落馬し、自刃したといわれている。

しかしそれは偽りで、光秀はそこで死んでおらず、現場を脱出した、または、死んだのは影武者だったという生存伝説がある。

小栗栖から南西に7キロの宇治に、浄土宗の専修院がある。境内の竹藪には板碑があり、光秀がその陰に身を潜めていたところを、住職が発見して匿った。

医療治術に心得のある光秀は「この石に祈願すれば、歯痛が治るであろう」と言い置いて立ち去ったという。

専修院には、現在も大きさ30センチほどの自然石の供養碑がある。歯の治療の時には、この石に箸を供えて平癒を願う、光秀を「歯痛神」として崇める風習がある。

専修院の南西800メートルにある神明神社には、藻隠池がある。かつてそこに古井戸があり、一時光秀はこの井戸に身を隠して、敵兵から逃れたという伝承も残っている。

 

和泉国に複数残る伝承

和泉国(大阪府南西部・現在、9市4町からなる)にも、光秀が潜伏していたとする寺が複数ある。

この地方には、「鳥羽にやるまい女の命 妻の髪売る十兵衛が住みやる 三日天下の侘び住居」という俗謡が伝わっている。

ここで歌われる「十兵衛」は光秀、「鳥羽」は現在の貝塚市鳥羽、「妻の髪売る」は光秀の牢人時代に、夫の連歌会の費用を捻出するため、黒髪を売った妻・煕子の美談を指し、山崎の合戦の後、三日天下に終わった光秀がこの地に住んでいたことを示しているという。

高石市にある浄土真宗本願寺派の光秀寺は、寺紋が明智氏と同じ桔梗紋である。この寺は、以前は泉大津市助松町にあり、創建はまさに小栗栖で光秀が死んだとされる天正10年(1582)。

前身寺として、三好氏関係の蓮正寺があり、仁海上人が境内に助松庵を作った。そこに山崎合戦の後、逃げてきた光秀を隠し、やがて寺名も光秀寺と改めたという。

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