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なぜ「織田信長の二男と三男」は後継者になれなかったのか?…信雄と信孝の争いと“その後”

2021年02月15日 公開
2022年07月28日 更新

谷口克広(戦国史研究家)

 

「清須体制」の成立

清須会議は、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人の宿老のみで行われた。そして、その後の織田氏の体制が決議された。

まず織田家の家督として、信忠の遺児三法師が立てられることが正式に決まった。これについては、各宿老たちも、信雄・信孝も異議はなかったようである。

問題は「名代」である。信雄・信孝ともに譲らないため、争いが続くことを懸念した宿老たちは、「名代」は置かず、幼主三法師を直接4人の宿老たちで守り立て、傅役として堀秀政を付けることを決定した。

まとめると、この時決まった新しい体制は、次のようになる。

織田家家督:織田三法師
執権:柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興
傅役:堀秀政

この体制を、ここでは「清須体制」と呼んでおこう。

なお、羽柴秀吉が政権を確立するまでの政治体制を「織田体制」と呼ぶのが一般的になっているが、右記の体制が保たれたのは最初の約4ケ月にすぎない。この期間を「清須体制」と呼んで、分離するのが当を得ていると思われる。

 

対立していく勝家と秀吉

9月3日、勝家は長秀からの手紙に応えて、長文の書状を送っている。内容は、信雄と信孝の境界争いのこと、それに三法師の居所に関することである。

長秀はまだ公平な立場で動いている様子だし、勝家のほうも秀吉への敵意など感じられない。「清須体制」は維持されているのである。

しかしこの後、勝家と秀吉との関係は、急速に崩れてゆく。

10月6日、勝家は堀秀政に宛てて、やはり長文の書状を書いた。そこで勝家は、秀吉が清須会議で決めたことに違反していることを詰り、ひたすら自分の正当性を主張しているのである。

秀政といえば新家督三法師の傅役、形の上では公平な立場にいるべき人物である。しかしこの時点で彼は、実質上秀吉に従属していた。勝家もそれを承知の上で、直接秀吉に呼びかけるつもりで綴ったのだろう。

それから間もない10月15日、秀吉は京都大徳寺において、信長の葬儀を大々的に執り行って見せた。信長の実質的後継者は自分である、という宣伝であった。

さらに秀吉は10月28日、長秀・恒興を誘って、京都本圀寺で会議を開いている。信雄を暫定的織田家家督にしようと話し合ったのである。

暫定的家督すなわち「名代」は、清須会議で否定されたはずである。しかし、勝家に加えて信孝まで反秀吉の意向を強めてきている現状を見て、秀吉は信雄を担ごうとしたわけである。

こうして「清須体制」は、わずか4ケ月で崩壊することになる。

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