ホーム » 歴史街道 » 本誌関連記事 » なぜ「織田信長の二男と三男」は後継者になれなかったのか?…信雄と信孝の争いと“その後”

なぜ「織田信長の二男と三男」は後継者になれなかったのか?…信雄と信孝の争いと“その後”



2021年02月15日 公開

谷口克広(戦国史研究家)

 

家臣らはなぜ信孝に背いたのか

信雄を担いだ秀吉には、丹羽長秀・池田恒興・堀秀政、その他、畿内と西国の大名たちが味方になった。それに対して、信孝・勝家方には、滝川一益が同調しただけであった。

12月、秀吉は勝家方の北近江長浜城を攻めて陥落させた。さらに秀吉は、岐阜城に信孝をも攻撃した。この時、なんと美濃の織田家臣たちのほとんどが、信孝を離れて秀吉方に付いてしまったのである。

清須会議以後、新たに信孝の家臣になった美濃衆が信孝を離れたのはわかる。しかし、ずっと信孝の近臣だった者まで背いている。

これはどうしたことだろうか。信孝は、「智勇、人に越えたり」などと、褒められることの多かった若者であった。しかし、意外と性格に欠点があったのではなかろうか。

『勢州軍記』に「それ信孝は勇義を自慢し、短慮により柔和を知らず」との評があるが、案外と的を射ているのではなかろうか。自信過剰の才人は、とかく孤立しがちである。結局信孝は、秀吉に降伏するしかなかった。

勝家が出陣したのは、翌年の3月である。信孝はそれに同調して再び挙兵した。

4月に賤ケ岳の戦いがあって、頼みの勝家は最期を遂げた。信孝は捕らえられ、岐阜から尾張内海に送られた。そして5月2日、大御堂寺において信孝は、信雄の命により切腹に追い込まれた。26歳であった。

 

家督としての役割を果たすものの…

羽柴秀吉に擁された信雄は、こうしてライバルの信孝を葬った。

信孝との勝負が決する前から信雄は、安土山下町に定書を下したり、諸将の礼を受けたり、織田家の家督としての役割を果たしている。

賤ケ岳の戦いの後の天正11年(1583)6月17日に発せられた、越後の新発田重家宛ての佐々成政書状には、信雄について次のように説明されている。

「上様(信長)御時と相替らず、天下御存知なされ候」

しかし、「天下人」と言われながらも信雄は尾張清須城に居り、天下人の居城安土城の城主は三法師である。しかも成政は、先の文言に続けて、次のように書いている。

「羽柴筑前(秀吉)万端御指南申す儀に候」

つまり、すべて秀吉が取り仕切っているというのである。そういえば、賤ケ岳の戦いの後の諸将に対する知行の宛行も、秀吉の手で行われている。信雄が、尾張・伊勢の自領以外で宛行行為を行った例は見られない。

つまり信雄は、織田家家督といっても暫定的な立場、また「天下人」といっても形式的なものにすぎなかったということである。

次のページ
権力を振るい始めた秀吉との衝突 >



歴史街道 購入

2021年3月号

歴史街道 2021年3月号

発売日:2021年02月10日
価格(税込):790円

関連記事

編集部のおすすめ

清洲会議と羽柴秀吉~天下をつかんだ根回し術

6月27日 This Day in History

信長も才能を認めた嫡男・織田信忠…正統後継者の惜しまれる「結末」

和田裕弘(わだやすひろ:戦国史研究家)

織田信雄~不肖の息子と呼ばれながらも、戦国を生き抜いた男

4月30日 This Day in History

2月開催!!ハッピーウーマンオンラインセミナーシリーズ-Dr.クリスティンペイジ

WEB特別企画<PR>

アクセスランキング

WEB特別企画<PR>

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
2月開催!!ハッピーウーマンオンラインセミナーシリーズ-Dr.クリスティンペイジ

現代からの視点で日本や外国の歴史を取り上げ、今を生きる私たちのために
「活かせる歴史」「楽しい歴史」をビジュアルでカラフルな誌面とともに提供します。

×