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二・二六事件で失われた、ある陸軍軍人の命と「もう一つの日本の未来」



2021年03月23日 公開

岩井秀一郎(歴史研究家)

 

「非戦」の信念を培った歩み

渡辺錠太郎は、明治7年(1874)4月16日、愛知県東春日井郡小牧村(現・小牧市)で父和田武右衛門、母きののもとに生まれた。学校は小牧学校(現・小牧小学校)に通っていたが、中退し、隣村の岩倉村に住む伯父渡辺庄兵衛の家へ養子に入る。

小学校で数年間しか学ばなかったものの、渡辺の勉学への意欲は並々ならぬものがあった。養父(庄兵衛)の畑仕事を手伝いながら、懐には幾何や代数の書物をしのばせた。仕事の合間にこれらをひもとき、問題を解いたり解説を読み込んだりしたのである。

この経験から、労働と学問は両立する、むしろ労働の直後の方が難しい数学の問題などは解ける、という持論を持つに至った(津田應助『渡邊前教育総監の郷土小牧の生立』)。

「月給の大半を丸善(書店)に支払う」(『軍国太平記』)と後年まで言われた渡辺の学問、読書への強い関心と向上心は、少年時代からのものだったのである。

そうして勉学に励む渡辺は、ある時軍服を着た陸軍青年将校の姿を見て、軍人に憧れを抱くようになる。そのためには士官学校(海軍は兵学校)に入る必要があるが、優等生が集まる士官学校は、渡辺のような者にとり、相当難しいと思われた。

しかし、渡辺は周囲の予想を覆した。明治27年(1894)8月、受験生の中でもトップクラスの成績で合格したのである。林銑十郎が回顧したところによると、試験会場で「紺がすりに袴をつけた朴訥然とした男」、渡辺錠太郎の姿はとりわけ目立っていたという(岩倉渡邉大将顕彰会『郷土の偉人 渡邉錠太郎 増補版』)。

卒業後の渡辺は、歩兵第36連隊付などを経て、今度は陸軍大学校へと入学する。士官学校より狭き門だが、卒業時の渡辺は首席で、恩賜の軍刀を授かる栄誉を勝ち取った。

明治37年(1904)2月、大尉となっていた渡辺は、友人の紹介で野田すずと結婚するものの、間もなく日露戦争に動員され、戦地へと渡った。

渡辺の初陣は、かの有名な旅順要塞攻略戦、その第一回総攻撃である。8月19日から24日まで行なわれたこの作戦は失敗に終わり、渡辺は足を負傷する。彼は野戦病院に搬送され、さらに内地の病院へと送られた。

傷は二ケ月ほどで癒えたが、そのまま内地に留められ、ポーツマス条約の締結によって戦争は終結した。そして明治38年(1905)9月、維新の立役者の一人であり、陸軍創設の功労者、山県有朋の副官となる。

渡辺の回想によれば、山県もまた相当な読書量を誇ったらしい。特に軍事に関しては熱心で、新刊書は副官に通読させ、大事な部分には傍線を引かせた。自らもその書籍を通読し、傍線の位置が不適当だったりすれば、「剰(あま)す所なく急所々々に就て質問を発」するという徹底ぶりだった(入江貫一『山縣公のおもかげ附追憶百話』)。

常人であれば気の休まらない、仕えたくない人間だろう。しかし実力で道を切り開いてきた渡辺にとって、この経験は良い糧となった。

後年まで、渡辺は「尊敬するのは山県元帥一人」(『軍国太平記』)であったし、ドイツ留学を挟んで二度(明治38年9月〜40年〈1907〉2月、同43年〈1910〉11月〜大正4年〈1915〉2月)、副官を務めたことを考えても、信頼されていたと見ていい。

さらに大きな経験は、第一次世界大戦後の欧州視察である。この戦争は、人類が経験した初の「総力戦」であり、交戦国それぞれを大きく疲弊させた。特に敗戦国側で主力を担ったドイツの被害は甚大で、渡辺の衝撃も大きかった。

渡辺は、大正9年(1920)5月に約一年のドイツ視察を経て日本に戻るが、この時取材に訪れた「新愛知」(郷土の新聞)の記者とのやりとりが、その衝撃の大きさを物語る。

記者は取材の終わりの方で「いよいよ、これからは、日本も世界の軍事大国ですねえ」と述べたのだが、渡辺は右手を高く挙げてこれを制止した。

彼は、「産業経済や国民生活がそれに伴なっての大国ならばよろしいが」と、「軍事大国化」の危険性を指摘し、「総力戦」では勝敗無関係に悲惨な目に遭う、それゆえ「どうでも戦争だけはしない覚悟が必要である」と記者を諭したのであった(『郷土の偉人 渡邉錠太郎 増補版』)。

渡辺の非戦論は空想的なものではなく、「固陋なる精神万能主義より来る肉弾戦術」と、旧来の陸軍の考えを批判し、「防空」の重要性を主張するなど、むしろ「国防体制を整える」に主眼が置かれていたといえる。

合理的な防備を整えることで他国に「戦争」を断念させ、最悪の場合でも極力被害を抑える、というものだ(拙著『渡辺錠太郎伝』)。これは生涯、渡辺の揺るがぬ信念となった。

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