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第67代・三条天皇の皇位継承

2021年05月11日 公開
2022年06月02日 更新

吉重丈夫

平安神宮

「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は三条天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

皇位継承事典
 

第六67代 三条天皇

世系41、即位36歳、在位5年、宝算42歳

皇紀1636年=天延4年(976年)1月3日、冷泉天皇の第二皇子として誕生された居貞(おきさだ)親王で、先々帝の花山天皇の8歳年少の異母弟に当たる。母は摂政太政大臣・藤原兼家の長女・贈皇太后・超子である。

皇位が花山天皇からは従兄弟の一条天皇に、そしてまたその従兄弟の花山天皇の異母弟・三条天皇へと継承された。

7歳で母を亡くされ、父帝・冷泉上皇はご不例を患っておられ、後ろ盾がなかった。8

皇紀1646年=寛和2年(986年)7月16日、外祖父・兼家の庇護のもと、11歳で立太子される。

皇紀1651年= 正暦2年、左大臣・藤原師尹(忠平の五男)の次男・藤原済時の娘・娍子(せいし)を妃とされ、皇紀1654年=正暦5年には第一皇子として敦明親王が誕生された。

皇紀1671年=寛弘8年(1022年)6月13日、一条天皇の譲位を受け、10月16日、36歳で即位される。三条天皇にはこの時18歳になられる敦明親王がおられたにもかかわらず、まだ4歳の一条天皇の第二皇子・敦成(あつひら)親王( 後一条天皇)が皇太子に立てられた。

敦成親王は先帝・一条天皇を父とし、道長の長女で中宮の藤原彰子(しょうし)を母とする皇子である。一方、敦明親王の外祖父・藤原済時(師尹の子、忠平の孫)はすでに死去しておられ、敦成親王の外祖父・道長の権勢に押されたのであった。

皇紀1672年=寛弘9年(1012年)4月、道長の次女・妍子(けんし)が入内して中宮となられるが、天皇は東宮時代からの妃である娍子を皇后とされたので、二后並立状態となる。

外孫・敦成親王への早期譲位を願う道長と親政を望まれる天皇との関係は必ずしも良くはなかったようであるが、道長の娘・妍子(中宮)を差し置いて、藤原済時の娘・娍子を立后されたことで、道長との関係はさらに悪化する。なお、妍子は娍子の22歳年下で、年の順とはなっている。

皇紀1674年= 長和3年(1014年)、三条天皇は眼病を患っておられ、道長はこれを理由にしきりに自身の外孫である敦成親王への譲位を勧める。

皇紀一1676年=長和5年(1016年)1月29日、天皇は眼病の悪化で、ついに、皇后・娍子との間の皇子・敦明親王(23歳)の立太子を条件に、道長の勧めに従い9歳の敦成親王(後一条天皇)に譲位され、2月13日太上天皇となられる。譲位を受けてから4年7ヶ月の在位(皇統譜には6年とある)、41歳であった。道長の皇位継承に与える影響は大きかった。

譲位された翌皇紀1677年=寛仁元年(1017年)4月29日出家され、5月9日に42歳で崩御された。

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