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継体天皇が「東」からやってきた理由

2021年05月24日 公開
2022年06月23日 更新

関裕二(歴史作家)

 

福井の発展と三国の重要性

福井平野を俯瞰すれば、「子宮」のような形をしていて、近畿圏とは隔絶されていることが分かる。そして、男大迹王が育った三国は、敦賀から船を出して、最初にたどり着く港である。

三国といってもぴんとこないかもしれないが、刑事ドラマによく登場する東尋坊のある場所、といえば、分かりやすいだろう。

福井と西をつなぐ陸路は不便だから、海上交通を利用しただろう。その場合、三国から出た船は、敦賀(角鹿)に向かったはずだ。敦賀湾は天然の良港で、奥羽・北陸地方と畿内を結ぶ水運の要だった。

七里半越、塩津街道のふたつの陸路を経由して琵琶湖北岸の海津、大浦、塩津に通じていた。ここからさらに船を出し、琵琶湖最南端の大津につながっていたのだ。三国も、敦賀との関係を見なければ、その地理的な意味は、理解できない。

つまり、福井平野は陸路では不便だったが、海の道はしっかり確保されていた。福井発展の要素は、海からもたらされたのだ。ところで、福井の古代史はほとんど知られていないのが実情である。ただ、一時期、越を代表する地域だったことは間違いない。

石川県や富山県では銅鐸がまったく出ていないが、福井県では9個出ている。北陸地方の前方後円墳の半分は、福井県に集まっていて、九頭竜川流域の丸岡・松岡周辺に密集地帯がある。

4世紀後半から6世紀半ばに続く、越の王の眠る古墳群だ。しかも、これだけ長く同一の系譜が想定される古墳群は珍しいのだという。

なぜこの時代、福井は発展したのだろう。理由はいくつも推理されている。九頭竜川流域で米の生産量がこの時期飛躍的に高まっていたことや、若狭から敦賀にかけての塩業が当たったのではないかとも考えられている。

敦賀や三国の潟(天然の良港)を利用した交易、鉄の増加、馬との関わりなども指摘されている。男大迹王の「おおど=をほど」は、「ホト(火処)」をさし、鍛冶の炉の意味ではないかと推理し、男大迹王を鍛冶王とみなす考えもある。

いずれにせよ、日本海沿岸屈指の天然の良港・三国なくして、福井は語れないのだ。そしてだからこそ、男大迹王の母は、三国と大いに関わっていたのだろう。

近畿地方との交流は、陸路が不便だった分、余計に三国が重要な意味を持っていた。そして、福井平野の諸勢力は、近畿地方と文物のやりとりをしながら、独自の文化を育んでいったのだ。

 

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