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ガダルカナル島で大敗した日本軍…生還者が語った「この世の地獄」

2021年08月11日 公開
2022年06月28日 更新

早坂隆(ノンフィクション作家)

 

密林に35キロに及ぶ「迂回攻撃路」を切り開く

夜が明けると、米軍からの激しい攻撃が始まった。野砲はもちろん、沖合の艦艇からも狙い撃ちにされた。

上陸部隊を指揮する第一七軍司令部は当初、上陸地点から沿岸部を直進してそのまま飛行場へと正面突破する作戦を検討していた。しかし、正攻法に不安を感じた司令部は一転、部隊を大きく迂回させる形で密林を通過し、飛行場の背後に出て攻撃を行う作戦を採用。

その結果、密林に進撃路を切り開くことが工兵第二連隊の軍務となった。後に、師団長の名前から「丸山道」と呼ばれることになる35キロ以上にも及ぶルートの開拓である。

そして迎えた10月24日の正午、第二師団の丸山師団長は、遂に総攻撃の命令を下した。

〈一、天佑神助と将兵の辛苦とに依り、師団は其の企図を全く秘匿し敵の側背に進出することを得たり
二、予は神明の加護に依り既定計画に基づき攻撃を行い、一挙飛行場付近の敵を殲滅せんとす〉

同日午後、激しい雨が降り始めた。攻撃開始時刻は午後5時。日が暮れてからの夜襲が日本側の狙いであった。こうして始まった戦闘について、金泉さんはこう追想する。

「とにかく雨あられのように弾が降ってきました」

日本軍の攻撃に備え、米軍は予め防備を固めていた。米軍は密林の各所にマイクロフォンを設置し、日本軍の動向を綿密に調べていた。丸山師団長の言う「師団は其の企図を全く秘匿し敵の側背に進出することを得たり」という言葉は、現実と全く乖離していたのである。

 

喰うか喰われるか…飢えとの戦い

総攻撃が失敗に終わった後、生き残った兵士たちは密林の中にタコ壺を掘るなどして、潜伏生活を始めた。そんな日々の中で、最大の懸案となったのが食糧の確保であった。

「ヤシガニを捕まえて食べました。椰子の木の下にいるんですよ。あとはトカゲや植物の葉っぱなど、何でも口に入れました」

但し、陸海軍の上層部とて、この島を見棄てた訳ではなかった。11月上旬には、大規模な輸送船団がショートランド泊地からガダルカナル島に向けて出航している。

しかし、多くの輸送船が敵の戦闘機や急降下爆撃機の攻撃に晒され、あえなく炎上。対する日本側の航空戦力は、極めて脆弱であった。貴重な糧秣や弾薬が、ソロモン海の藻屑と消えた。

金泉さんたち最前線は孤立を余儀なくされたが、それでも稀に糧秣が配給されることがあった。だが、受領の際には惨憺たる場面が生じた。即ち、日本兵同士による糧秣の奪い合いである。ジャングルの中でゲリラと化した兵士が、「泥棒」となって襲ってきたという。

「喰うか喰われるかです。戦場なんて最後はそんなもんですよ。この世の地獄でしたね」

「故郷のために」「家族を守るために」と思って祖国を出た金泉さんだったが、実際の戦争はそんな心情をも破壊した。蘭印で現地人に大歓迎を受けたのも「皇軍」の一場面であるし、同胞同士による食糧の争奪に堕したのも同じ軍の一側面である。

この両面に対して適確に焦点を合わせることが、「戦争を語り継ぐ」という行為の本質であろう。一面だけを恣意的に伝えてはならない。

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