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「近衛声明」直前まで涙の訴え...“日中戦争”を止めようとした陸軍中将の実像

2021年08月12日 公開
2022年07月07日 更新

岩井秀一郎(歴史研究家)

 

多田の涙が意味する警句

そして期限の1月15日に開かれた大本営政府連絡会議にて、交渉継続を主張する参謀次長多田駿と、その他ほぼ全員が交渉打ち切りを主張という形で激論が交わされた。

会議への出発前に多田は、「本日の会議は必ず決定を保留せしむべし」と断言していった(堀場一雄『支那事変戦争指導史』以下同書より)。「決定」とは「和平交渉打ち切り」のことに他ならない。実際、連絡会議では「事の重大なるを指摘し、即断を避け、さらに支那側最後の確答を待つべき旨を強調」し、交渉継続を訴えた。

だが、多田は孤軍だった。同じく陸軍の代表者である杉山元陸相が、「期限まで返電なきは和平の誠意なき証左なり。蔣介石を相手にせず屈服するまで作戦すべし」と言い、広田外相も「永き外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭なり。参謀次長は外務大臣を信用せざるか」と出る。

近衛首相も「速やかに和平交渉を打ち切り、我が態度を明瞭ならしむるを要す」、米内海相に至っては、「政府は外務大臣を信頼す。統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」と、辞職までチラつかせる。

こうして見ると政府は唐突に始まった日中戦争に確たる見通しがなく、和平交渉に出るかと思えば、戦果の拡大に気を大きくするなど、一貫性がなかったことがわかる。

多田は、これに激しく反発する。「明治大帝は朕【ちん】に辞職なしと宣【のたま】えり。国家重大の時期に政府の辞職云々は何ぞや」と「声涙共に下る」反論を行なった。要するに、重大局面で簡単に辞めるなどと言うなと諭したのである。

参謀本部(多田)と閣僚の議論は平行線を辿った。昼を挟み、夕刻までたっても多田は折れない。このままでは、本当に内閣は崩壊する。ここで手を打ったのは、陸相の杉山だった。

杉山は秘書官と部下を参謀本部総務部長の中島鉄蔵のもとへ走らせ、多田の説得を依頼した。中島は多田や河辺、本間雅晴第二部長らに内閣総辞職の危機を訴えた。総辞職となれば、電報だけで日本の内閣が崩壊したことになり、あまりに体裁が悪い。多田は、ついに決断した。

「参謀本部としてはこの決議には同意しかねるが、しかしこれがために内閣が潰れることになれば国家的にも非常に不利であるから黙過して、あえて反対は唱えない」(井本熊男 『支那事変作戦日誌』)。まさしく「断腸の思い」と言っていい決断だった。かくて翌日、冒頭の「近衛声明」が発出されたのである。

多田はなぜ、これほどまでに和平にこだわったのだろうか。一つには、長期戦による消耗と、それに伴うソ連の進出への警戒が挙げられる。これは多田だけでなく、参謀本部の和平派の考えでもあった。

もう一つは、「日本と中国が戦争をする」ことへの本質的な嫌悪感が挙げられる。多田が幼少期から中国文化に親しみを持っていたことは述べたが、現地人とも中国語で話し、民衆への労りの心も持ち合わせていた。

多田はこの後、参謀本部を去り、ついに中央へ戻ることなく昭和16年(1941)9月、陸軍大将昇進直後に予備役に編入された。太平洋戦争が勃発するのは、同年12月のことである。

多田はその後、千葉県の館山に退き、昭和23年(1948)12月、胃癌のため死去した。彼が戦後残した記録の一つに「波長道楽」というものがある(多田家所蔵)。

この中で多田は「終戦」という呼び方を「卑怯と思う」と述べ、自分の子らに「自己完成に努めて即日本の完成に力を尽くせ」と託している。多田は「新日本」の建設のために、大きなことよりも、まずは自らの研鑽にはげめ、と言い残したのである。仏教に造詣の深い、多田らしい言葉ではないだろうか。

その後の日本の歩みを多田がどう見るかはわからないが、「終戦」という呼び方を「卑怯」と嫌ったその心は、戦後の歴史そのものに対する、鋭い警句なのかもしれない。

 

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