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最新研究!真珠湾への奇襲はどこまで把握されていたのか

2021年12月08日 公開

小谷 賢(日本大学危機管理学部教授)

真珠湾とミズーリ号

宣戦布告が遅れたことで、奇襲となってしまった昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃。

しかし、当日ハワイには米空母が一隻もいなかったことから、アメリカは事前に攻撃を察知していたのではないか、との見方もある。

果たしてその真相とは…。諸外国のインテリジェンスの動向を調べてきた筆者が、その最新研究を明かす。

※本稿は、『歴史街道』2021年12月号から一部抜粋・編集したものです。
 

今日に至るまで飛び交う、様々な憶測

1941年12月8日午前3時25分(日本時間)に開始された、日本海軍による真珠湾攻撃は、作戦戦闘という側面からすれば大成功に終わった。これは山本五十六連合艦隊司令長官の不退転の決意、綿密な作戦計画、たゆまぬ訓練、そして徹底した秘密保持の賜物だが、戦略的な観点から見ると疑問の残る作戦である。

よく指摘されるように、日本政府の対米最後通告は真珠湾攻撃の一時間後となってしまい、その結果、攻撃は米国内で「だまし討ち」と喧伝され、同国の参戦を確実なものにしたのみならず、現在の米国でもそのような印象が根強く残っている。

既に終戦直後から、真珠湾攻撃については「ローズヴェルト政権は事前に攻撃を知っていたのではないか」という疑念が湧き起こっており、米国では「修正主義」、日本では「謀略説」として紹介される。これは同政権が米国の第二次世界大戦への参戦を密かに望んでいたために、攻撃を察知していながらわざと日本に撃たせたのではないか、とする説である。

修正主義者は、「第二次世界大戦への非介入」を公約として当選したローズヴェルト大統領が、真珠湾という裏口を使って参戦を果たした、という政治的な批判を行なうために様々な説を提示した。

実際、真珠湾攻撃のおよそ16時間前に、ローズヴェルトは暗号解読情報によって、日本が提出してくるであろう対米最後通告の内容に目を通しており、「これは戦争を意味する」という言葉を残している。

また軍事的には、日本海軍の攻撃時に米太平洋艦隊の空母部隊が真珠湾を離れており、難を逃れられたのは、日本の攻撃を事前に知っていたからではないか、と指摘されることもあるが、これは状況証拠に過ぎない。

本稿においては当時の米国のインテリジェンス(情報活動)を概観しながら、米側が日本の真珠湾攻撃をどの程度察知していたのかについて検討していく。
 

監視されていた日本人スパイ網

真珠湾謀略説で議論になるのが、ローズヴェルトがどうやって攻撃の情報を事前に得ていたのか、ということだ。当時の日本海軍の秘密保全は徹底しており、機動部隊の指揮官たちは、択捉島の単冠湾からハワイに向かう航路で、攻撃目標が真珠湾であることを初めて知らされた程である。

また東条英機首相も、直前まで海軍の攻撃目標については知らされなかったという。このような徹底した海軍の秘密保全に対して、米国の情報機関はどのように対処していたのだろうか。

当時の日本海軍は米国との戦争を想定し、米国内にスパイ網を築き上げていた。米東海岸では横山一郎海軍武官がニューヨークで人形店を営む、ヴェルヴァリー・ディッキンソンを情報提供者として雇っており、彼女は何度かハワイにも赴いて情報収集を行なっている。

横山はディッキンソンから得た情報を頻繁に東京に打電しているが、横山の電話はFBI(米連邦捜査局)に盗聴されており、横山から東京への通信は米海軍の暗号解読組織に傍受、解読されていたようである。その後、1944年にディッキンソンはFBIによって逮捕された。

西海岸では、立花止海軍中佐が元英空軍士官のフレデリック・ラットランドらを使って情報収集を行なっていたが、この活動もFBIの知る所であった。1941年6月に立花はFBIの工作に引っかかって逮捕、国外退去処分となった。ラットランドは、米海軍情報部のエリス・ザカライアス大佐とも良好な関係を築いていたようであるが、立花の逮捕を受け、ラットランドを監視していたFBIと英国防諜部(MI5)両組織は彼を拘束し、10月には英国に強制送還している。

このように、FBIや米海軍情報部は米国内の日本人スパイ網を徹底的に監視していたわけだが、ただこの監視活動から、日本海軍が真珠湾を攻撃目標としているという情報は得られていない。

他方、現地真珠湾において直接情報収集を行なっていたのは吉川猛夫海軍少尉である。吉川は1941年3月からホノルル日本総領事館員として、森村正の偽名でハワイにおける米軍の情報を収集し、それを喜多長雄総領事の名義で東京に打電していたのである。

同年10月23日には、同地を訪れた軍令部情報部の中島湊少佐から、ハワイの米軍事基地に関する九十七項目もの質問を受け取り、翌日にはすべてに回答している。その情報は真珠湾攻撃の際に活用された。ただし、吉川自身は真珠湾攻撃については知らされていない。吉川の一連の活動はFBIや米海軍の監視に引っかからなかったようであり、真珠湾攻撃後、吉川は一次的に身柄を拘束されたが、証拠不十分で釈放されている。

当時のFBIの監視は徹底しており、海軍関係者以外にも、米国内の日本陸軍関係者や外交官も監視下に置いていた。しかしその任務はあくまでも防諜に主眼が置かれており、情報収集活動は二の次であった。そのため上記のラットランドをめぐっては、泳がせることで情報を収集しようとするザカライアスとFBIの間で対立も見られた。いずれにしてもFBIの活動からは、真珠湾攻撃に関する情報は得られていないようである。

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