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北条氏規の韮山籠城戦~北条五代、最後の光芒

2021年12月22日 公開

鷹橋 忍(作家)

「韮山城将」として、武田軍を撃退

小田原に帰還後、氏規は御一門衆3代玉縄城主・北条綱成の次女を正室に迎えたとみられている。氏規は2代玉縄城主・北条為昌(北条氏康の弟、氏規の叔父)の地位を受け継ぎ、三崎城主となって、為昌の遺領であった三浦郡を治めはじめた。

氏規は、外交で活躍したことでも知られ、安房里見家との和睦交渉を担い、奥羽伊達輝宗や、古河公方足利家との取次も行なった。とりわけ外交で特筆すべきは、徳川氏との関係だろう。

永禄11年(1568)12月、武田信玄の駿河侵攻により、北条氏・今川氏・武田氏の駿甲相三国同盟は崩壊した。北条氏は今川氏を支援して駿河に援軍を送り、武田氏と対立していった。

翌永禄12年(1569)5月、武田信玄と連携した家康が、今川氏真の籠城する遠江掛川城(掛川市)を攻めた。これに対し、北条氏は家康と和睦を結ぶことに成功するが、その際に取次を務めたのが氏規であった。

「韮山城将」としての氏規の活躍がみられるのも、この頃からだ。

同年6月、武田軍は韮山城近くに位置する北条(静岡県伊豆の国市)を攻撃しているが、そのとき武田軍を迎え撃ったのは氏規の軍勢であった。このとき氏規は、韮山城に在番していたとみられている。

翌元亀元年(1570)8月、信玄が再び伊豆に出兵し、氏規が守る韮山城には、武田勝頼・山県昌景・小山田信茂を大将とする軍勢が送り込まれた。北条氏はこのとき多方面に作戦を展開しており、韮山城にはあまり兵を割くことができなかったという。

だが、韮山城は要害のうえ、城兵が奮戦した。武田軍は、城のすぐ近くの「町庭口」まで攻め入ったものの、韮山城を落とすことはできずに撤退している。

この武田軍との2度の戦いにより、韮山城の軍事的な評価が高まり、3代・北条氏康と4代・氏政の父子は、活躍した氏規をあらためて城将に任命したという(『韮山町史』)。

 

始祖・伊勢宗瑞が築いた城を守るため

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発する。織田信長の死により、甲斐・信濃・上野では領土争奪戦(天正壬午の乱)が繰り広げられた。

北条氏と徳川氏も対立したが、同年10月に和睦が成立。『北条記』では、この和睦は家康と入魂であった、氏規の仲介によって成立したとしている。

関白になった秀吉は、関東と奥羽の「惣無事」(戦国大名間抗争の停戦)を発令した。これは、全国の統治者たる秀吉が、許可なく行なわれる戦を「私戦」とみなして、その停止を命じたものである。

この令に従うことは、秀吉への従属を意味する。秀吉は東国大名への取次役を任せた家康を介し、惣無事を北条氏に通告して返答を求めた。北条氏は秀吉に従属するか、対決するかの選択を迫られたのである。

北条氏は明確な答えを返さぬまま、韮山城を始めとした領国内の城郭を普請し、防衛体制を整えはじめた。

秀吉による北条征伐の風聞が盛んに喧伝されるなか、天正16年(1588)5月21日、家康は北条氏政・氏直に対して無条件での従属を促す文書を送り、「今月中に兄弟衆を、秀吉への御礼言上のために上洛させるように」と求めた。ここでいう「兄弟衆」とは、家康との関係から、氏規を指すとみられている。

氏規は上洛し、同年8月に聚楽第で秀吉と対面する。これは北条氏の秀吉への従属の証といえるものであった。

だが、秀吉が求めていた北条氏政の上洛が実現しなかったことや、秀吉が真田領と裁定した上野国名胡桃城を、北条方が奪取した事件もあり、秀吉は小田原攻めを決定する。

北条氏は抗戦の準備を進めたが、氏規は和睦の道を模索していたとみえ、家康に秀吉への取りなしを求めている。上洛して秀吉の権勢を目の当たりにした氏規には、戦えばどうなるかがわかっていたのかもしれない。

しかし、小田原攻めは開始され、東海道軍と東山道軍に編成された秀吉の軍勢は、二方面から北条領国へ進軍した。秀吉軍は22万にもおよぶ大軍勢であったという。

抗戦に反対であったと思われる氏規だが、韮山城に入り、天正18年(1590)3月29日、主力の東海道軍を迎え撃った。

韮山城攻撃軍は、織田信雄(信長の次男)、蒲生氏郷、細川忠興、福島正則ら4万4千人の大軍であった。対して、氏規が率いる韮山城の守備兵は3600人といわれる。

秀吉の軍勢は圧倒的な兵力で韮山城を攻撃し、城下に火を放った。しかし、韮山城は要害堅固なうえ、城兵の士気がすこぶる高かったという。同日に攻められた山中城は1日で落城したが、韮山城は落ちなかった。そこで秀吉は、「鳥のかよひ」もできないように、城の周囲に付城を築き、堀を設け、柵を巡らせ、厳重な包囲網を築くように命じ、包囲を続けさせた。

その間に北条方の城は次々と落城。韮山城も、「下丸」という麓の曲輪が落とされている。

それでも氏規は戦い続けた。韮山城は始祖・伊勢宗瑞が建てた北条氏の聖地である。何としてでも、守り抜きたかったのではないだろうか。

その氏規に対し、家康は「開城して北条氏政・氏直父子の処遇を嘆願するのが得策だ」と開城を促す使者を送った。その結果、氏規は家康の説得に応じ、籠城から3ケ月後の6月24日、ついに投降した。

秀吉は、「以前に上洛して対面したことがある」という理由で氏規の助命を認めたという。

やがて小田原城も開城し、5代当主・北条氏直は投降した。

氏直は妻が家康の娘であるのが配慮されたためか、助命されたものの、氏規の兄である4代・氏政と八王子城主・氏照、家老の代表格である松田憲秀と大道寺政繁は、切腹を言い渡された。氏規は2人の兄の介錯を務めたのちに、後を追って自害しようとしたが、制止されたとも伝わる。

ここに戦国大名北条氏は滅亡し、戦国時代も終わりを告げた。

氏規と韮山城は、その後、どうなったのか。

同年7月21日、氏規は北条氏直とともに、高野山(和歌山県伊都郡)へ配流となった。この日を最後に、氏規の「真実」印の使用は確認できなくなる。

氏規は翌天正19年(1591)2月、氏直とともに赦免された。家康らの取りなしだという。氏直は8月に大名に返り咲くも、同年11月に疱瘡で死去している。

一方、氏規は秀吉から河内国丹南郡檗村(比定地未詳)で2千石の所領を与えられた。

文禄3年(1594)12月には、河内野中村(大阪府藤井寺市)など6988石の知行を拝領、慶長5年(1600)2月8日、大坂久宝寺町の屋敷で没した。享年56。

嫡男の氏盛は、5代・氏直の家督の継承を認められ、氏直の遺領のうち4千石を相続、父・氏規の死後はその遺領も受け継ぎ、24歳で1万1千石の大名格となった。

氏盛の長男・氏信が元和2年(1616)に河内国狭山に陣屋を構築し、これにより「狭山藩」と通称される。

以後、氏規の子孫は代々、狭山を本拠とし、1万石を領する大名として、明治維新を迎えるまで存続する。

北条氏の滅亡後、家康の家臣・内藤信成が城主となった韮山城は、慶長6年(1601)に廃城となった。廃城後は、韮山代官の御囲地となったため、土塁や堀も戦国時代の姿をとどめる。城跡の東側には秀吉軍の付城跡も残り、北条氏の栄光と終焉、氏規が示した誇りを今に伝えている。

 

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