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池禅尼、八重姫、亀前…鎌倉殿を助け、魅了し、時に悩ませた人々

2022年03月13日 公開
2022年04月21日 更新

中丸満(歴史ライター)

 

子を成すも、政子を恐れて京へ...大進局

あまり知られていないが、実はもう一人、頼朝の寵愛を受け、子までもうけた女性がいた。藤原朝宗(時長とも)の娘・大進局である(前述の由良御前の姉妹とは別人)。

朝宗は下級貴族の出身で、常陸介となって関東に下向し、任期を過ぎたのちも常陸にとどまり、伊佐郡(茨城県筑西市)に住んだ。のちに出家して常陸入道念西と称し、奥州合戦で功を挙げ、陸奥国伊達郡に所領を得て伊達氏の祖になったといわれる。

大進局が鎌倉の御所に上がった時期は不明だが、頼朝に仕えるうちに寵愛を受けるようになり、文治2年(1186)2月、頼朝の三男・貞暁を出産する。

しかし、このことは間もなく政子の知るところとなり、嫉妬を恐れた頼朝は、ひそかに大江景国(加藤景廉の一族)に養育させた。景国は政子の追及にあい、赤子を抱いて深沢(鎌倉市)の近くに隠れ住んだという。

それでも政子の嫉妬は収まらなかったらしい。建久2年(1191)1月、頼朝は母子を政子から守るため、伊勢の所領を大進局に与え、生活を保障したうえで京に上らせた。翌年5月には、貞暁も上京させて仁和寺に入れ、隆暁法眼の弟子とした。

これに先立ち、頼朝は御家人の妻から乳母を選ぼうとしたが、多くが政子に恐れをなして引き受けようとしなかったという。

貞暁は出家後、政治の世界には一切かかわらず、やがて仁和寺を出て高野山に隠棲した。その頃にはさすがに政子の怒りも解けていたらしい。貞応2年(1223)、貞暁は政子の支援を受けて高野山に阿弥陀堂と3基の五輪塔を営み、頼朝・頼家・実朝の3代の菩提を弔い、寛喜3年(1231)、母に先立ち46歳で亡くなった。

一方、大進局は晩年に出家し、源義経とともに挙兵して滅ぼされた源行家の子・行寛法印の援助を受けて、摂津で余生を送ったという。

 

許嫁を父に殺され、早世した娘...大姫

多くの女性に支えられた頼朝であったが、終始悩みの種となったのが長女・大姫の存在ではなかっただろうか。

大姫は頼朝と政子の長女として、治承2年(1178)頃に生まれた。『源平盛衰記』によると、「容貌は美麗で吉祥天女のようであった」という。

寿永2年(1183)、頼朝と木曾義仲の和睦の証として鎌倉に送られてきた、義仲の嫡子・清水冠者義高(11歳)と婚約する。政略結婚ではあったが、二人の仲はむつまじかったようだ。

しかし翌年、義仲を滅ぼした頼朝は、報復を未然に防ぐために幼い義高まで殺してしまう。

大姫は精神的に大きな打撃を受け、以後病床に伏し、日を追って憔悴していったという。頼朝と政子はたびたび寺社に参詣して回復を祈ったが、大姫の病が癒えることはなかった。

建久5年(1194)、頼朝の甥の一条高能との縁談が計画されたが、大姫は「そのようなことになれば身を深淵に沈める」といって拒絶したという。

大姫の後鳥羽天皇への入内が計画されたのは、その翌年のことである。頼朝にとっては、天皇の外祖父の地位や幕府の権威向上など、さまざまな思惑があったであろう。

東大寺再建供養のために上洛した頼朝と政子は、大姫を朝廷の要人に引き合わせ、多額の献金を行なうなど入内工作を進めた。しかし、大姫の病は癒えることなく、建久8年(1197)7月、20歳前後の若さで亡くなった。

この入内計画は、愛娘に最高の婿を迎えたいという頼朝の親心であったとする見方もある。だが、大姫の死後、頼朝は次女・三幡(乙姫)の入内を望み、上洛まで計画していた。残念ながら、娘の入内そのものが目的だったのだろう。

しかし、建久10年(1199)1月に頼朝は急死。半年後には三幡も14歳で亡くなり、入内の夢は露と消えたのである。

 

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