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イブン・バットゥータ...中世イスラーム世界を踏破した「旅する法官」の謎

鷹橋忍 (作家)

 

新たな地インド、中国へ

イブン・バットゥータは無事にメッカに辿り着き、1326年11月4日から10日にかけて行なわれた巡礼大祭に参列して、初めての巡礼を果たす。しかし故郷に帰ることなく、新たな旅へと出発するのだった。

同年11月17日、メッカを発ち、イラクとイランの諸地方を旅する。約半年後にメッカに戻ると、寄留者として1327年〜1330年まで滞在し、高名な学者や聖人に学んだ。

1330年の巡礼大祭の後、紅海を船で南下してイエメンへ向かい、翌年には東アフリカ、南アラビアを旅している。1332年に南イラン、ハジャル、ヤマーマを通り、再びメッカの地に戻った。

メッカに戻ったイブン・バットゥータは、同年8月30日〜9月5日の巡礼大祭に参加したのちに、インドへと旅立っている。シリア、アナトリア、コンスタンティノープル、キプチャク大草原など、ユーラシア大陸を縦断する大迂回ルートを進み、途中、キプチャク・ハーン国の君主で、敬虔なイスラーム教徒であったと伝わるスルタン=ムハマンド・ウーズバグに謁見している。このときのスルタンや儀式などの詳細な叙述は、キプチャク・ハーン国の貴重な史料の一つに数えられている。

1333年9月12日、イブン・バットゥータはインダス河畔に到着し、スィンド地方を巡り、インドのデリーに辿り着く。そして、デリーを首都とするトゥグルク朝のスルタン=ムハマンド・シャー2世のもとで、8年あまりマーリク派の法官として仕えることになる。

イブン・バットゥータは、もともとはアラビア語だけしかわからなかったが、インドに長く滞在しているうちに、ペルシャ語はかなり、トルコ語は少し理解できるようになったという。言葉の通じない相手との会話は、間に通訳を挟んでいたと思われる。

1342年にはスルタンから中国の元朝への使節を命じられ、同年7月22日、デリーを発った。途中、異教徒に捕らえられたが、からくも脱出に成功し、マルディヴ諸島、スリランカ、スマトラなどを経て、南中国の海港である泉州に到着している。

『大旅行記』によれば、泉州に上陸したイブン・バットゥータは、広東と杭州を経て、元朝の都ハーン・バーリク(大都、現在の北京)に到着している。ただし、他人から伝え聞いた話や、虚実が入り混じった驚異譚が多く存在することなどから、イブン・バットゥータの中国旅行を疑問視する声もある。

その後、イブン・バットゥータは泉州から出港し、20年前に身重の妻を残してきたシリアのダマスカスを再訪している。彼はここで、息子が15年前に亡くなったこと、故郷にいる両親のうち、父親は亡くなったが母親はまだ存命していることを知った。

ダマスカスに滞在後、イブン・バットゥータは1348年11月15日、メッカに戻った。当時、ペストが大流行しており、彼も各地でその惨状を目の当りにしている。

翌年のメッカの巡礼大祭に参加した後、イブン・バットゥータはメディナ、エルサレムなどを経由してエジプトのカイロに行った。

この頃、故郷モロッコのマリーン朝の繁栄や、マリーン朝のスルタン=アブー・イナーンが名君であるとの噂を聞いたことなどから望郷の思いが高まり、帰国を決意。1349年11月12日、マリーン朝の首都ファースに帰還した。21歳で故郷を発ったイブン・バットゥータは、45歳になっていた。

 

サハラ砂漠──最後の大旅行

イブン・バットゥータはスルタン=アブー・イナーンに謁見し、「この地に勝る国はない」と旅の杖を棄て、故郷のタンジェに戻り、その後、サブタに移り住んだ。ところが彼は再び、旅の杖を手に取ることになるのだ。

3カ月間、病に伏したが、快癒すると、今度はキリスト教軍と戦うため、イベリア半島南部へと旅立った。

このとき訪れたグラナダで、イブン・バットゥータは、後に『大旅行記』を編纂する若き文学者イブン・ジュザイイと出会っている。

イベリア半島から戻ると、最後の大旅行となるサハラ砂漠の奥地スーダン地方へと向かう。この旅の目的はスルタンの命による、サハラ砂漠の奥地の情報収集であったのではないかとみる説もある。

1352年2月18日、イブン・バットゥータはサハラ交易の基地・スィジルマーサを出発し、6月28日にマリ王国の首都であるマーリーを訪れている。

そして、大雪が降り積もるなか、ハイ・アトラス山脈越えの隘路を通って、ファースに帰還した。イブン・バットゥータは、「これほどの難路を知らない」と語っている。

彼の長い長い旅は、これをもってようやく終わりを告げた。イブン・バットゥータは、50歳になっていた。

帰国後スルタン=アブー・イナーンの要請により、イブン・バットゥータは旅の経験を書記に聞き取らせ、草稿にしている。

その草稿を編纂したのが、グラナダで出会ったイブン・ジュザイイである。イブン・ジュザイイは、詩、歴史に精通し、特に能筆家としては一流の腕をもっていたといわれる。彼は草稿をもとに『大旅行記』を編纂し、ヒジュラ暦757年サファル月(1356年2月4日/3月3日)に完成させた。

その後、イブン・バットゥータはどのような人生を歩んだのだろうか。

没年に関しては諸説あるが、ヒジュラ暦770年(1368/69年)、ターマスナーで法官たちの主監(法官の意見のまとめ役)の在任中に亡くなったという。享年は65、または66。

一方、イブン・ジュザイイは、『大旅行記』編纂の完成から約9カ月後の1356年12月、36歳で没した。

このイブン・ジュザイイの筆による『大旅行記』の写本は、現在もフランス国立図書館に所蔵されている。紙は黄ばみ、インクは薄れ、あちらこちらを虫に食われているため、少なからず読み難くなっている部分も見受けられるという。それでも、能筆家とうたわれたイブン・ジュザイイの見事な筆跡で、イブン・バットゥータの不思議で果てしない旅を、現在も語り続けている。

 

 

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