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鎌倉幕府を支えた“三浦一族とゆかりの地・横須賀”

2022年08月05日 公開

中丸満(歴史ライター)

 

和田義盛(よしもり/1147~1213)...弓馬の術に精通した初代侍所別当

侍所は御家人の統括機関で、御家人の招集や遠征の奉行、罪人の収監などを行なう組織。その初代別当(長官)が和田義盛である。義盛は義明の長子・杉本義宗の子で、三浦郡和田(三浦市初声町和田)を拠点として和田を称した。

義盛は武芸一筋の豪傑であり、特に武士の象徴ともいえる弓馬の技術に優れていた。弓始めなどの行事でたびたび妙技を見せたほか、壇ノ浦では陸地から遠矢を射かけて海上の平家船団を翻弄。奥州合戦では敵の総大将の1人・藤原国衡に一騎打ちを挑み、一矢で傷を負わせた。

御家人からの信望は厚かったが、軽率なところもあった義盛は、能吏として頼朝に重用された梶原景時に、侍所別当の地位を奪われてしまう。その恨みもあって、景時弾劾事件では急先鋒となり、2代将軍・頼家への取り次ぎをためらう大江広元を脅して梶原一族を追放し、別当に返り咲いた。

3代将軍・実朝からも厚い信任を受け、宗家の三浦氏をしのぐ権勢を誇った。源氏一門と北条氏しか許されなかった国司の地位を望んだのも、そうした自信の表われだったのだろう。

しかし建暦3年(1213)、一族が謀反事件に関与したことが発覚。義盛は罪に問われなかったが、北条義時から挑発を受けて挙兵する。しかし、三浦義村・胤義兄弟の裏切りもあって敗北し、一族とともに討ち死にを遂げた。

 

三浦義村(よしむら/1168?~1239)...北条氏の覇権確立を支えた策士

三浦義村は義澄の嫡子で、母は伊藤祐親の娘である。建久元年(1190)、頼朝の上洛中に父・義澄を含む10人の御家人が官位を与えられた際、義澄の譲りを受けて右兵衛尉に任官するなど、三浦氏の御曹司として厚遇された。

しかし、単なる親の七光りではなく、義村は権謀術数に富んだ策士であった。梶原景時が結城朝光を讒訴した際、真っ先に和田義盛と安達盛長に相談し、景時排斥で話をまとめたのは義村である。

北条時政の失脚後は、義時の盟友として覇権確立に協力した。和田合戦では、起請文を書いて義盛に味方することを誓いながら直前で背信。義時に義盛の挙兵を通報して和田一族を滅亡に追い込み、「三浦の犬は友をくらう」と揶揄された。

承久の乱では、後鳥羽上皇についた弟・胤義と袂を分かって幕府の勝利に貢献。義時の死後も宿老として重きをなし、三浦氏を北条氏に次ぐ地位に押し上げた。

摂関家出身の九条頼経が4代将軍になると、嫡子・泰村とともに近侍し、頼経の上洛の際は入京や春日社参の先陣を務める栄誉を得た。しかし、将軍との親密さが災いし、泰村は5代執権・北条時頼に滅ぼされ三浦宗家は滅亡する(宝治合戦)。義村の死からわずか8年後のことだった。

 

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