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【生誕100周年】日本の「住宅」と「生活」を変えた“名経営者”石橋信夫の軌跡

2021年03月23日 公開
2022年10月11日 更新

樋口武男(大和ハウス工業 最高顧問)

石橋信夫氏
霧島RHにて1985年当時の樋口氏

戦後から高度経済成長期、バブル崩壊と激動の時代において、住宅業界に革命を起こした名経営者である、大和ハウス工業創業者の石橋信夫。

その生誕100周年を記念し、大和ハウス工業最高顧問・樋口武男氏の編著による書籍の発刊が決定。本企画では、石橋信夫の功績を戦後日本経済発展の歴史と共に振り返る。(構成・文=村上敬、写真提供=大和ハウス工業株式会社)

※本稿は、『THE21』2021年4月号より内容を一部抜粋・編集したものです。

 

過ぎたことを振り返るな、変化を読んで明日を思え

「最近、日本は2020年から25年に最悪期を迎えるとの説が出ています。事実だとすれば、諸君には、それを乗り切る中心的な役割を担っていただくことになります」

今から24年前にこのような予測をして、自社の入社式で新入社員に語りかけた経営者がいる。大和ハウス工業創業者である石橋信夫だ。この予測はコロナ禍を具体的に想定したものではない。

ただ、バブル崩壊後に"失われた10年"へと突入していた当時の日本において、景気が回復するどころかさらに悪化して失われた20年、30年になる可能性に備えていたのは、慧眼という他ないだろう。

もちろん石橋は、厭世的な気分で悲観論を披露したわけではない。厳しい時代を生き抜く方法論を、続けてこう説いた。

「まず、"先を読む"ことを心がけてください。実績を参考にするのはよいが、過ぎたことを取り沙汰しても仕方ありません。今日という日は二度とこないのです。明日をどうするかを考え、どう変化するかを読み、前に進んでください」(平成9年度大和ハウスグループ合同入社式にて)

先を読んで動く──。それは石橋が経営において最も大切にしていた考え方であり、大和ハウス工業を売上高4兆円超の巨大グループへと成長させた源泉でもあった。

 

"職人の世界"だった建築業を工業化した

石橋は1921年に奈良県吉野で植林・製材業を営む石橋家の5男として生まれた。第二次世界大戦では関東軍に配属されて満州でソ連と戦った。

軍隊では上官の命令が絶対だ。しかし、少尉だった石橋は部下たちの被害を最小限に抑えるため、無謀な突撃命令を突き返したことがあった。この頃から既に、受け身で動くのではなく、自分の頭で先を読んで判断する習慣が身についていた。

終戦を満州で迎えて、シベリア抑留。仲間が栄養失調や過労で次々と死んでいく中、約3年後に日本に復員を果たす。

家業を手伝っていた石橋に転機が訪れたのは、ジェーン台風が関西を襲った50年だった。この台風では2万戸近い家屋が倒壊。被害状況を見て回った石橋は、強風でも折れなかった稲や竹を見て、中が空洞の鉄パイプで建物を建てることを思いつく。

当時は戦後の木材不足で、政府も代替資源の使用を進めていた。時代の流れと石橋の柔軟な発想がかみ合って生まれた事業アイデアだった。

実用化に向けて研究開発していた55年、大和ハウス工業を大阪で創業する。社名に「工業」とつけた背景には、建築の世界を工業化して、手軽に建てられるものにしたいという思いがあった。

それがただの夢想ではなく、時代の必然であったことは、のちの「プレハブ住宅」の普及が証明している。

先を読む力は資金面でも活きた。シベリア抑留で壮絶な体験をした石橋は、日本軍の情報量の乏しさが敗因の一つだと分析していた。その反省と悔恨から、国際情勢を含めた政治経済の情報には常にアンテナを張っていた。

石橋はGHQによる日本共産党員の公職追放のニュースを聞いて、朝鮮半島で戦争が起きると予想。その予測に基づいて株式投資を行ない、創業時の運転資金を確保した。

石橋は大局の事業構想だけでなく、ビジネスを前に進めるための実務的な課題に対しても先見の明を発揮していた。

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