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「東郷文彦と若泉敬」の時代

2016年02月26日 公開
2017年03月22日 更新

東郷和彦(京都産業大学世界問題研究所所長)

沖縄返還交渉に尽力した二人が残したかったもの

 

沖縄返還交渉の「表と裏」

 ——2016年は、京都産業大学の世界問題研究所開設からちょうど50年です。2代目の所長が若泉敬先生ですが、東郷先生のお父上である外務省の東郷文彦北米局長も同時期に沖縄返還交渉に関わっておられます。

 東郷 1964年に佐藤栄作政権ができ、65年にまず日韓基本条約を結び、日韓関係を正常化させました。この年、京都産業大学が開学し、翌66年に世界問題研究所ができ、若泉敬はその東京事務所で仕事を始めました。東京にいる官僚や政治家、学者とのネットワークづくりをやられたわけです。佐藤栄作総理は日韓問題を片付けたあとに「沖縄の問題が終わらないと戦後は終わらない」と考え、沖縄問題に重点を置くわけです。つまり、佐藤栄作総理というリーダーがおり、その指揮下でこの目標を実現するために外務省チームの中核で働いたのが、私の父である東郷文彦北米局長であり、佐藤総理の密使として働いたのが京都産業大学世界問題研究所の若泉敬でした。沖縄返還を成功させた、この表と裏で働いた2人の功績と思想を紹介するにはいい時期かもしれません。

 東郷文彦の自著『日米外交三十年』によると、「わが国は、対米関係はわが外交の基軸であると歴代の総理も言っておられ、国内でも抵抗なく受け入れられている。私は講演などの機会ある毎に、対米関係がわが国外交の基軸であると云ってもそれは別に与えられたものである訳ではなく、基軸とすることがわが国にとって有利であり得策であるからである」と述べています。日米関係が日本にとって有利になるように日本側からこれを変え、動かしていくことが父の基本姿勢でした。これは「能動的国益」ともいうべき考えでした。

 一方、若泉敬の自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の中に次のような記述があります。「要するに、いかなる時代であれ、権力闘争を本質的要素とする国際政治にあって、一国の最高レベルの為政者が日夜心を砕いているのは、自国の安全保障という一事である。それは外に対しては侵略からの防衛、内にあっては秩序と安全の確保である。約言すれば国の独立を守り、国民の生命、財産、福祉をいかに守るかということに帰着する。それは、国家なるものの根源的な存在理由=国家理性に関わる事柄であることはいうまでもない」。

 2人の考えは国際政治における典型的なリアリズムだといえます。「沖縄が返るまでは戦後は終わらない」という沖縄返還交渉のなかで2人の共通点として、パワーポリティックスの認識と安全保障政策への取り組みが挙げられます。若泉敬は学者ですから「自主独立」の思想を表に出し、東郷文彦は官僚ですから「能動的国益」観を表明したのではないでしょうか。

 ——当時の日本外交は、日本側から積極的に働きかけていたという印象を受けます。戦後の日本外交を理解するうえで、日本から強く要求していることを知る必要がありますね。

 東郷 戦後の日本外交は、敗戦によって米軍による占領という事態を迎えました。内では経済を核とする戦後復興があり、外にあっては再び国際社会の一員として誇りある立場を取り戻すことが課題となりました。その最初のポイントは、1951年9月に署名したサンフランシスコ平和条約です。これにより西側の一員としての立場を明らかにし、アメリカとの安保条約を選択し、米軍の国内駐留と国連の信託統治下に置かれた沖縄を米軍の施政下に置いたのです。

 その後、50年代の後半から60年代にかけて、日本外交はじつに元気でした。この時期に解決していった外交課題は、(1)ソ連との外交関係の設定(領土問題は未解決のままに残ったが)、(2)国連加盟、(3)東南アジアとの協力関係の開始、(4)安保条約の改定、(5)韓国との関係正常化、(6)沖縄施政権の返還とつながっていくのです。

 ——沖縄返還交渉の当時、いちばん問題になったのは「核抜き・本土並み」を要求する日本と核の持ち込みはどうしても確保したいというアメリカ側との違いで、そこでいわゆる「密約」があったという理解でいいわけですね。

 東郷 そのとおりです。交渉は1967年の佐藤・ジョンソン共同声明のときから本格化し、東郷も若泉もそこから参画しました。「両3年内の返還時期の合意」についての合意です。しかし1番の天王山は69年の沖縄核兵器問題の解決です。それが若泉敬にとっての密約であり、彼の最大の仕事になります。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を読むと疑義の余地がありません。一部には、ああいうものがあったとは信じられないという外務省の人たちの意見もあります。でも、やはり密約はあった。あの本を読んで、密約がなかったと思うのは非常に難しい。私はこの本が発刊されてから、密約がなかったと思ったことは1度もありません。

 少し詳しく説明しますと、1968年の交渉は若干停滞し、「核抜き・本土並み」の議論が高まるなかで、東郷文彦は「核抜き」が実現できなくても、「復帰第一」を考えていました。佐藤総理は69年3月10日の国会答弁でそれまでの「返還後の基地の態様については白紙」から進んで、初めて「核抜き・本土並み」に近づいた答弁をします。日本政府は、9月に共同声明第8項という形で結実する重要提案をアメリカ側に出します。核をいったん撤去し、再持ち込みについては60年安保改定のときに決めた事前協議制度に従って相談しましょうという、日本外交史に残る傑作の案文です。

 ところが、そこで、外務省は大きな壁に突き当たります。アメリカ側が「この問題は総理・大統領でやるから」という立場をとり、外務省を通した表向きの交渉が進まなくなります。

 一方で、9月30日にすでに密使としての地位を確立していた若泉敬は、ワシントンでキッシンジャーから繊維問題と核問題に関する2枚の紙を受け取ります。核問題については「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込むこと、及び通過させる権利」と明記されていたというのです。ここにアメリカの明確な要求が登場します。帰国した若泉敬は、3回佐藤総理と面談し、裏チャネルでキッシンジャーと合意する全権を受け取ります。11月にはワシントンにおいて若泉・キッシンジャーのシナリオどおりに最終交渉は進められます。

 核問題についての佐藤・ニクソン間の合意が達成されたとき、その裏のシナリオを書いた若泉敬にとってはもちろん成功でした。第8項はほとんど日本側の提案どおりになりましたから、表の合意を確保した東郷文彦も、十分な成功だったと思ったのではないでしょうか。

 ——核問題と繊維問題が抱き合わせで交渉のテーブルにあったのが興味深いですね。

 東郷 戦後の日本経済の推移を考えてみてください。60年代になり、「奇跡の二桁成長」の時代は終わるのですが、2回の石油ショックを柔軟に乗り切り、80年代後半のバブル景気によって格上げされた日本の経済力は、冷戦の勝利者アメリカをも刺激するまでに成長していきます。外交面では、沖縄で始まった繊維交渉に端を発する米欧との貿易摩擦への対応が一貫した主要課題になっていったのです。

 72年の沖縄の返還のときに「2つの縄」ということで繊維問題が出てきます。繊維は日本経済が60年代の急成長で大発展をした結果、安くて質のいい繊維がアメリカのとくにカリフォルニアの繊維市場を直撃して、ニクソンの選挙基盤であるカリフォルニアの繊維業界は壊滅的な状況になります。もうこれ以上、大事な選挙区であるカリフォルニアの繊維産業をいじめないでくれということを要求し始めたのはアメリカです。つまり、72年までは政治安全保障の問題については、日本がアメリカに要求していたわけです。

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