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山本博 酒とたばこは心の安らぎ

2017年08月01日 公開
2017年08月01日 更新

山本博(弁護士・日本ワインを愛する会会長)

 「パブを俺たちの手に取り戻せ」

 ――お酒が人間の生活と切っても切れないものということになると、問題はどこでお酒を飲むかです。いつの時代に、どうして酒場が誕生したのですか。

 山本 人類がワインを手にしたとき、まずは供え物として神に捧げ、そのおこぼれを飲みました。そして次に、王侯貴族を中心に祝事に宴会を開いてワインを飲んだのです。人類文化の発祥地メソポタミアから始まって今日に至るまで、宴会にワインが必要不可欠の存在なのはそのためです。そうなると今度は、愛しのわが家でも飲みたくなる。家庭での晩酌も毎日続くと飽きてくるのと同様、男という生物は本質的に単調な籠の鳥的生活に長く暮らしてはいけないからです。狩猟時代の大昔から、外をふらつき歩くという宿命的習性をもっています。

 さらに仲間をつくり、情報交換をし合う必要もありました。そのとき、話をするだけでは寂しいと生まれたのが「酒場」です。

 バビロン時代の有名な「ハンムラビ法典」(紀元前1700年代)のなかには、すでに「酒亭」の章があります。水割りのインチキや、ツケを拒否した亭主は水刑に処することまで定めているくらいです。酒場はかくも大昔から存在していたのです。

 世界各国、どの国でもそれぞれ多様な酒場があり、男社会の掻痒を反映しています。中国では『三国志』に酒亭が出てきますし、ずっと時代が下って英国では、新聞やテレビのない時代に、パブが紳士・庶民それぞれの情報交換と親交・憩いの場として、社会生活上重要な存在となっていました。現代では有名な作家兼ワインコラムニストのキングスレイ・エイミスが1970年代に、男の重要な隠棲所と聖地の機能を失いつつあるパブの堕落を嘆いて弾劾しました。

 ――パブのどんな堕落を嘆いて弾劾したのですか。

 山本 古き良きパブ文化というのは、上流階級のインテリが集まって、酒を飲み、たばこやパイプを燻らせながら、男たちが世の中の流れや政治をのんびり論じ合うものでした。それが60年代、70年代になると若者がやって来てはガチャガチャ騒ぎ、ビールの味もいい加減なら食べ物もまずい。そのうえ、女性も出入りしている。「パブや本物のエールを俺たちの手に取り戻せ」とエイミスが書いたら、全国から共感と同時に多くの不満も寄せられて一大論争に発展しました。

 ――日本の酒場には、どのような特色がありますか。

 山本 日出ずる国の日本は、女なくては日の昇らぬお国柄であるにもかかわらず、男の世界であった酒場が鎌倉時代から出現し、江戸時代に飛躍的に発展しました。以来、本来の酒場は飲兵衛がとぐろを巻く場所でした。戦後の高度経済成長期になって新鋭の「駅前ヤキトリ(酒場)」なるものが登場しました。酒場が2種類あるのが現代日本の特色です。

 この「駅前ヤキトリ」なる、わが国特有の酒場文化は、住居が職場と離れたところにある社会現象から生まれたものです。その特色は、ほとんどの男客の話題はいかに自分が職場で冷遇されているかとか、無能な上司が幅を利かせているかなどなど、悲憤慷慨であること。たわいがないといえばたわいがないですが、そうして日中の鬱積した不満とストレスを発散させながら、家庭にまで持ち込まない庶民の知恵であり、それによって家庭の平和が維持されているのです。アメリカなどは日中のストレスをそのまま家へ持ち帰って、妻に当たり散らし、妻が外へ出るようになると子供に当たり散らしているようです。

 つまり「駅前ヤキトリ」こそ、日本の経済大発展を支えた土台なのであって、偉大な功績を果たしてきた酒場文化といえるでしょう。

 ――「駅前ヤキトリ」に代表される日本の酒場文化もこの10数年来、変貌しつつあるように思います。

 山本 日本の酒場文化が変貌した要因の1つは「女性客」の激増で、もう一つは「ワイン」の乱入だと思います。一昔前まで、ワインは駅前ヤキトリや居酒屋で飲むものではありませんでした。

 そもそも、日本人一般がワインを知るようになったのは明治維新以後のことです。岩倉使節団が訪欧して驚かされたことの1つが、ワイン産業がヨーロッパの経済で重要なものになっているという事実でした。帰国後、新政府が新殖産振興の1つにワインを取り上げ、東京・神戸・北海道にブドウ栽培の基地をつくって、全国規模でワインづくりを推奨しました。

 こうして全国各地でにわか仕立てのワイン醸造家が雨後の筍のごとく誕生しましたが、結果からいうとどこも挫折し、全面敗北の惨状でした。理由は簡単で、なんとかワインらしきものはつくったものの、売れなかったのです。ご飯に味噌汁、煮野菜に焼き魚、そして漬け物が主体になる日本人の食生活に合いませんでした。

 わずかに生き残れたのは神谷傳兵衛の「ハチブドー」とサントリー創業者の鳥井信治郎が生んだ「赤玉ポート」でした。これはワインというより人工甘味飲料で、普通のワインと違って食事と共に飲むのでなく、「養命酒」のように健康食品のはしり的存在です。宣伝上手だった鳥井のアイデアが大ヒットし、日本全国津々浦々で愛飲されました。戦前の日本人がワインといわれてイメージしたのは、この甘い赤ワインでした。サントリーはこの大成功の収益を活用して今日のウィスキーの王座を占めることができたのです。

 ――第2次世界大戦後、日本人の食生活は一変し、本格的ワインも飲まれるようになりましたが、一般にはなかなか普及しませんでした。

 山本 ワインは輸入の舶来品で高価でしたから、当然、飲む人は限られていたし、そのうえ、自称ワイン通なる連中がいろいろやかましいことをいったため、ワインは高嶺の花として庶民の手の届かないものと思い込まされてしまったからです。

 東京オリンピックが流れを少し変え、貿易の自由化が革命的激変を生じさせました。多くの手ごろな値段のワインが現れ、誰でも飲めるものになったのです。食生活の洋風化が日本人の味覚を変え、そこに女性が新たな飲み手として加わりました。世界のワイン生産国でも高級ワインは別格の存在で、多くの生産者は飲んだこともないというのが当たり前です。日本人が安いワインを飲むようになったというのはやっと正常になったということで、まさにワイン元年といえる時代を迎えています。

 ――女性が新たな飲み手として加わり、2015年には、フランスワインに代わってチリワインが初めて輸入ワインの第1位に躍り出ました。この現象は何を意味しているのでしょうか。

 山本 酒場文化の大変革です。チリの輸入ワインの2割5分は業務店で扱われ、あとの7割5分がスーパーやコンビニで売られています。これが意味するのは、ワインが家庭で消費されるようになったということ。家庭でワインになじんでくれば、家庭の外、つまり酒場でもワインに手を出すのはごく自然です。グローバリゼーションの大波は日本のワイン市場を襲い、いまや世界の各ワイン生産国のよい品質で安価なワインが溢れています。いったんこれに味を占めたら、もうあとへは戻れません。よい意味でも悪い意味でも、日本の酒場と酒場文化は変わって当然なのです。

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著者紹介

山本 博(やまもと・ひろし )

弁護士・日本ワインを愛する会会長

1931年、横浜市生まれ。早稲田大学大学院法律科修了。弁護士業の傍らワイン、フランス料理関係の著書・訳書を多数著すワインとフランス食文化の第一人者。フランス農事功労章、ザ・フレンチ・フード・スピリット・アワード人文科学賞を受賞。世界ソムリエ・コンクール審査員を長年にわたって務めたほか、フランスINAOの委託により日本におけるワインの不正表示防止の法律実務も担当した。

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