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<連載>「パラアスリートの肖像」第7回 謙虚な勇者たち <須藤悟(パラアイスホッケー日本代表キャプテン)>前編

2018年03月10日 公開

山田清機(ノンフィクション作家)、人物撮影=尾関裕士

 

(前回までの内容はこちらから)

 出る杭は打たれる横並び意識の強いこの国に生きていて、謙虚な人のことを称揚するのはあまり好きではない。

 むしろ、多少横柄でも突出した能力のある人や、多少空気が読めないところはあっても、周囲からの同調圧力を意に介さず、独自の主張を口にできる人に好感をもつことのほうが多い。

 だが、あくまでも個人的な感想ではあるけれど、アスリートやアーチストと称する人々の「勇気を与えたい」という言葉遣いには、強い違和感を覚える。

「自分のプレーで、被災地に勇気を与えたい」

「私の歌で、障害者に勇気を与えたい」

 こんな発言を耳にするたびに、いったい何様だろうと思ってしまうのである。

 私の知る限り、勇気とは人から「与えてもらう」ものではなく、身の内から「湧いてくるもの」だった。ましてや、人に与えることができるようなものでは、断じてなかった。

 アスリートやアーチストが、何のためらいもなく「勇気を与えたい」などという傲慢な言葉を口にするようになったのは、いったいいつのことだろうか。正確な時期はわからないが、嫌な世の中になったものだと思わずにはいられない。

 前置きが長くなったが、昨年(2017年)11月23日、長野県岡谷市にある「やまびこスケートの森 アイスアリーナ」に、パラアイスホッケー日本代表チームの練習を見に行ってきた。

 まだ11月だというのに、朝の気温は〇度三分。しかも、練習の開始時刻は午前7時である。アイスアリーナの内部は氷が解けないように冷却されているため、足先や指先が痛くなるほど寒い。

 だが、スレッジ(橇)に乗って氷の上をところ狭しと走り回る日本代表チームの選手たちは、まったく予想していなかったことだが、奇妙なほどに明るく、そして謙虚な人たちであった。

 障害者スポーツを取材する際にいつも感じるためらいや、偽善的な気分を吹き飛ばしてくれるような彼らの明るさを目の当たりにして、いったい何が彼らをそうさせるのかという疑問が、むくむくと湧き上がってきたのである。

 

パラアイスホッケー小史

 パラアイスホッケーは、いまでこそこう呼ばれているが、昨年まではアイススレッジホッケーと呼ばれるスポーツであった。

 日本パラアイスホッケー協会の理事であり日本代表チームのチームマネージャーも務める小山幸子によれば、パラアイスホッケーは1960年代の初頭、スウェーデンで身体に障害を負ったアイスホッケー選手によって考案されたスポーツだという。

 基本的なルールはアイスホッケーと同じだが、決定的な違いがある。それは、両足にスケートを履いてプレーするのではなく、2本の刃がついたスレッジに乗ってプレーする点だ。

 選手は両手に1本ずつスティックを持ち、スティックの一方の端についているピックで氷を掻きながら前進し、もう一方の端のブレードでパックを操りシュートを放つ。シュートのスピードは時速100キロに達することもあり、この点もアイスホッケーと変わらないが、公式大会には下肢障害者しか参加することができない。

 スウェーデンで創始されたパラアイスホッケーは、やがてヨーロッパ各国から北米へと広まっていき、94年のリレハンメルパラリンピックから冬季パラリンピックの正式種目として採用されている。

 もともとアイスホッケーの盛んなカナダやアメリカではパラアイスホッケーの人気も高く、ソルトレイクパラリンピック(アメリカ)では、ほとんどの試合のチケットが完売。準決勝以降の試合のチケット売り場には、長蛇の列ができていたと小山は言う。

「日本のパラアイスホッケーの歴史は、長野パラリンピックの開催が決まった直後に始まりました。93年にノルウェーから講師を招いて講習会を開き、長野の車椅子バスケ、車椅子テニスの選手を中心にして、日本初のクラブチーム、長野サンダーバーズが結成されたのです」

 その後、北海道ベアーズ、東京アイスバーンズが結成され、98年の長野パラリンピックでは、初参加ながら、日本代表チームは5位の成績を収めている。

 そして、一般にはほとんど知られていないことだが、日本代表チームは2010年のバンクーバーパラリンピックで強豪カナダを破り、銀メダルを獲得しているのである(金メダルはアメリカ)。

 斯界で「バンクーバーの奇跡」と呼ばれるこの快挙が、いったいどれほどの快挙なのか、パラアイスホッケーに馴染みのない人間にはいまひとつピンと来ないのだが、小山によると……。

「バンクーバーパラに先立つオリンピックで、カナダのアイスホッケーチームは男女ともに金メダルを獲得していました。地元開催ということもあって、パラアイスホッケーにも当然金メダルが期待されていたのです」

 アイスホッケー大国であるカナダとアメリカには、パラアイスホッケーのチームも無数にある。パラアイスホッケー人口がわずか40人あまりしかない日本とは、選手層の厚さに天と地の開きがあるのだ。しかも、当時の日本代表チームの平均年齢は36歳、対するカナダ代表チームには10代20代の選手が多く、この点でも大きな差があった。

 そのカナダを、ソルトレイクでもトリノでも5位どまりだった日本が、破ってしまったのだ。

 1対1の同点で迎えた第3ピリオド、カナダのエースが放ったシュートをキャプテンの須藤悟が体でブロックすると、それを上原大祐と髙橋和廣がふたりで運んでゴールに叩き込んだ。残り時間、1分13秒。

 カナダはゴールキーパーをディフェンスに代えて、6人全員で猛攻撃を仕掛けてきたが、焦りから自責点を追加してしまい、3対1でゲームオーバー。奇跡が起きた瞬間だった。

「日本の勝利が決まると、会場全体がシーンと静まり返りました。でも、さすがにホッケーをよく知っている国民だけあって、その後はスタンディングオベーションの嵐でした。選手村に帰ると食堂の人たちが拍手で迎えてくれて、翌日町中に出ると、監督の中北に握手を求めてくる人がたくさんいたのです」

 これほどの世界的な快挙を、日本人はほとんど知らない。私も知らなかった。自分がいかにパラリンピックに対して関心をもっていなかったかに、愕然とする思いである。

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著者紹介

山田 清機(やまだせいき)

ノンフィクション作家

1963年、富山県生まれ。1987年、早稲田大学政治経済学部卒業。鉄鋼メーカー、出版社 勤務を経て独立。著書に『卵でピカソを買った男』(実業之日本社)、『青春支援企業』(プレジデント社)、『東京タクシードライバー』『東京湾岸畸人伝』(ともに朝日新聞出版)など。

須藤悟(すどうさとる)

パラアイスホッケー日本代表キャプテン

1970年、北海道苫小牧市生まれ。97年、北海道内で唯一のアイススレッジホッケー・チーム(現:パラアイスホッケー・チーム)「北海道ベアーズ」に加入し、パラアイスホッケーを始める。2002年、DF(ディフェンス)としてソルトレイクパラリンピックの日本代表に選出されたのち、トリノパラリンピックへの出場を果たし、続くバンクーバーパラリンピックでは、銀メダルを獲得。現在、日本代表チームのキャプテンを務めている。

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