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<連載>「パラアスリートの肖像」第7回 謙虚な勇者たち <須藤悟(パラアイスホッケー日本代表キャプテン)>前編

2018年03月10日 公開

山田清機(ノンフィクション作家)、人物撮影=尾関裕士

 

パラアイスホッケーの激しさは、まさしく「氷上の格闘技」と呼ぶに相応しい。中央が須藤。

 

寒い、眠い、遠い

 バンクーバーの奇跡の後、日本代表チームは長く低迷状態にあった。2012年の世界選手権ではAプール(上位グループ)8チーム中7位の成績しか残せず、Bプールに転落。翌13年に開催されたソチパラリンピック最終予選では参加6カ国中5位に終わり、長野パラリンピック以来初めて、パラリンピック本戦への出場を逃した。

 バンクーバーで燃え尽きて引退してしまった選手が多かったことや、競技環境が厳しいこと、他の国が強化に本腰を入れてきたことなど、いくつかの要因が考えられると小山は言う。

「バンクーバーで銀を取った後、国からの補助金は増えましたが、それだけでは1回海外遠征に行くにも足りない金額でした。また、日本はアイスリンクの数が少なく規模も小さいので、選手の多くが遠方から自腹で飛行機や車に乗って駆けつけて、一般の滑走が終わった後の深夜か早朝の練習に参加するということになってしまうのです。

 私は『寒い、眠い、遠い』の三拍子が揃っていると言うのですが、こうした厳しい競技環境では新しい選手がなかなか定着せず、選手が増えないと国内で競争力が生まれません。だからこそ海外遠征が重要なわけですが、遠征の資金は足りない。これが、日本のパラアイスホッケーの置かれた状況なのです」

 だが、こうした厳しい競技環境のもと、日本代表チームは昨年10月にスウェーデンで開催された平昌パラリンピック最終予選で、ドイツ、スウェーデン、スロバキアをくだして、みごと本戦への切符を手中にしている。

 平均年齢41歳という世界最高齢チームを勝利に導いたのは、中北浩仁監督と47歳の〝高齢者アスリート〟須藤悟キャプテンである。小山が言う。

「キャプテンの須藤には、ここで負けたら日本のパラアイスホッケーの灯が消えてしまうという危機感があったのではないかと思います」

 岡谷のアイスリンクで、氷上に須藤の姿を探した。

 目印は小山に教わったソックスの色だ。せわしく動き回る選手たちのなか、ひときわ巧みなスティック捌きで、水の中を泳ぐイルカのように自在に氷上を滑走しているのが、背番号24の須藤だった。

 練習終了後、リンク2階にある会議室で待ち合わせると、杖をつきながら自力で階段を上ってきた。

「僕、キャプテンらしいことなんて何もしていないですよ。俺についてこいなんて言って、自分が失敗しちゃったらまずいじゃないですか(笑)」

 マスクを外した須藤は、言葉は悪いが、アスリートというよりは普通の中年男性の顔つきである。体型もふっくらしていて、筋肉質な感じではない。しかし、監督の中北に言わせれば、須藤はディフェンスの要であり、世界中のパラアイスホッケーの監督に「日本チームだったら須藤がほしい」と言わしめる存在なのだという。

 1970年、須藤は北海道の苫小牧で生まれている。苫小牧は実業団アイスホッケーの強豪、「王子イーグルス」(王子製紙)の本拠地であり、アイスホッケーが盛んな土地柄として知られている。冬場は学校の体育の授業にもアイスホッケーが取り入れられ、子供たちはスティックを担いで学校に通っていた。苫小牧の子供にとってアイスホッケーは最も身近なスポーツであり、アイスホッケーの選手は憧れの的だったという。

 しかし須藤は、「家庭の事情」で小学校から軟式野球を始め、中学も高校もアイスホッケー部には入らず野球部で通した。家庭の事情とは、いったい何だろうか。

「経済的な理由です。当時、アイスホッケーの道具は全部輸入品でとても高かったのです。スケート靴が一番高価でしたが、子供の足はどんどん大きくなるので翌年には履けなくなってしまう。それに、学校の校庭にリンクをつくるのは親の役目だったので、親が部活のサポートをできない家庭は、ホッケー部に入るのが難しかったのです。同級生の多くがホッケー部に入っていましたが、親から『うちはできないから』と説得されました」

 苫小牧は野球が盛んな土地柄でもあったが、須藤は特に野球が上手かったわけでもないという。

「レギュラーになれなくて、ほとんど補欠でしたね。よく、たいして上手くもないのにずっと続けてる変な奴っているじゃないですか。僕はそういう存在でした」

 高校を卒業した須藤は、エレベーターやエスカレーターなどの昇降機の製造とメンテナンスを行なう会社に就職する。そこでも野球を続けていたが、入社3年目、20歳のとき、仕事中機械に巻き込まれて両脚を大腿部から切断する大怪我を負ってしまう。

 右脚は、膝の部分を短縮して大腿骨に脛骨を繋いだため、曲げることができない。左脚は、回転形成術といって大腿骨に足首を逆向きに繋ぐ手術を受けたため、足首が膝関節の代わりを果たしてくれて、曲げることができる。曲がる左脚に義足をつけ、右手に杖を持てば、なんとか歩くことができる。

 須藤は仕事に復帰するまでに、2年間にも及ぶ入院生活を送っている。その間、何を考えていたか尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。

「会社は常日頃からゼロ災害を標語にしていたのに、勤務中に災害を起こしてしまって、会社に対して申し訳ないという気持ちだけでした。お見舞いに来てくれる人にも、ごめんなさいという思いしかなかったですね」

 私だったら……会社に対して恨みつらみの念をもったかもしれない。こんな体にしたのは、会社の仕事だと。

「会社は、お前のために仕事を用意して雇用を継続するから戻ってこいと言ってくれました。復帰したら会社に貢献しなければダメだなと、そればかり考えていました」

 こうした心情が日本人に一般的なものなのかどうか私にはわからないが、ともかく須藤は、会社に対して感謝の気持ちしかもっていなかったというのである。

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著者紹介

山田 清機(やまだせいき)

ノンフィクション作家

1963年、富山県生まれ。1987年、早稲田大学政治経済学部卒業。鉄鋼メーカー、出版社 勤務を経て独立。著書に『卵でピカソを買った男』(実業之日本社)、『青春支援企業』(プレジデント社)、『東京タクシードライバー』『東京湾岸畸人伝』(ともに朝日新聞出版)など。

須藤悟(すどうさとる)

パラアイスホッケー日本代表キャプテン

1970年、北海道苫小牧市生まれ。97年、北海道内で唯一のアイススレッジホッケー・チーム(現:パラアイスホッケー・チーム)「北海道ベアーズ」に加入し、パラアイスホッケーを始める。2002年、DF(ディフェンス)としてソルトレイクパラリンピックの日本代表に選出されたのち、トリノパラリンピックへの出場を果たし、続くバンクーバーパラリンピックでは、銀メダルを獲得。現在、日本代表チームのキャプテンを務めている。

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