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<連載>「パラアスリートの肖像」第17回 レーサー <鈴木朋樹(パラ陸上選手)>

2019年01月23日 公開

山田清機(ノンフィクション作家)、人物撮影=尾関裕士

 

(前回までの内容はこちらから)

 

 

カッコいい車いすに乗りたい

JR千葉駅から車に乗って30分ほど、千葉市若葉区中田町にOXエンジニアリングという会社がある。社屋の正面には広大な落花生畑が広がり、敷地の左右を鬱蒼とした雑木林に囲まれている。ありていに言って、かなり辺鄙な田舎である。

OXは、今回の主人公、車いす陸上800m走のアジア記録保持者・鈴木朋樹(トヨタ自動車)にレーサーと呼ばれる競技用車いすを提供しているメーカーである。この国内屈指の車いすメーカーがこうした立地を選んだのには、それなりの理由があった。広報室長の川口幸治が言う。

「弊社の創業者、石井重行は、元々ヤマハ発動機の社員でしたが、会社のなかでは自分の思い通りのことができずに、独立してこの会社を立ち上げたのです」

バイクレースが好きで、バイク雑誌にインプレッション(試乗の感想)を寄稿するジャーナリストでもあった石井は、ヤマハを退職後、ヤマハの販売代理店を経営する傍らチューニング(改造)のための部品づくりを始め、ヤマハのバイクの性能試験も請け負っていた。

OXの社屋が辺鄙な場所にあるのは、性能試験で大きな騒音が出ても苦情がこないようにするためであった。

自社の部品を売るには、自社の部品を使ったバイクでいい成績を収めるのが早道だ。そう考えた石井は数々のレースに参戦し、雑誌にインプレッションを書きまくった。しかし……。

「1984年、石井は試乗の最中に事故を起こして、脊髄を損傷する大怪我を負ってしまったのです」

車いす生活を余儀なくされた石井は、当時の車いすのかっこ悪さに絶望してしまう。バイクのデザインに精通していた石井は、デザイン性をほとんど考慮していない車いすに乗るのが耐えがたかった。

だったら、自分が気に入るデザインの車いすを自分でつくってしまえばいい。幸いなことに、石井の周囲にはバイクのチューニングが得意な人間が大勢いた。彼らに声をかけて"かっこいい車いす"を作り始めたのが、車いすメーカーOXの事始めである。

 

器用でなんでも乗りこなす子

川口に、レーサーの進化をレクチャーしてもらってから、OXの工場の内部に入れてもらった。

工場のサイズはいたって小ぶりで町工場のイメージだが、一般の町工場と大きく異なるのは、小さいながら完全なバリアフリーが実現されていることである。やはりバイクの事故が原因で車いす生活になったという川口は、随所に設置された小型の昇降機を使って工場のなかを自在に移動していく。顧客の大半が車いすの利用者であることを考えれば、これは当然のことかもしれない。

競技用のレーサーだけを制作している第二製造課で、鈴木のレーサーを手掛けている小澤徹課長の話を聞いた。口数の少ない、いかにも職人肌の人物である。

小澤によれば、一台のレーサーは約1週間でつくれるが、東京パラリンピックの影響で注文が殺到し、現在は1年待ちの状態。車いす利用者の母数に大きな変化はないが、レーサーに乗りたいという人や健常者の体験用のレーサーの注文が増えたことなどが〝盛況〟の理由だという。

小澤が鈴木に出会ったのは、鈴木がまだ小学生だったころである。小学校低学年から先輩たちの"お古"のレーサーに乗っていた鈴木は、2004年の日産カップ追浜チャンピオンシップに参加してワミレス賞を受賞し、賞品として新品のレーサーを贈られることになった。そのレーサーをつくったのが、小澤だった。

「レーサーは高額だし、子供はどんどん成長するからすぐにサイズが合わなくなってしまうのでなかなか自分専用のレーサーをもてないのですが、朋樹はワミレス賞をもらって自分専用のレーサーに初めて乗ったんです。レーサーはオーダーメイドなので選手の体を採寸してからつくりますから、このとき初めて朋樹のことを意識したのではないかと思います」

小澤の記憶が微妙なのは、鈴木の師匠であり、一時期OXの社員でもあった車いすマラソンの花岡伸和(アテネパラ6位、ロンドンパラ5位)と一緒にいる鈴木に、それ以前にも会っていた可能があるからだ。

「なにしろこの世界は、途中でやめちゃう子が多いんですよ。車いすに乗っていると学校に行っても競争をする場面があまりないので、せっかくアジアで活躍しても世界大会なんかに出ていって壁にぶつかると、すぐに挫折しちゃう。でも、朋樹は小さいころから選手として競技に出ていたんで、採寸しながらこの子は続けてやるのかなと思った記憶があります」

現在鈴木は、OXのサポート選手として車いすの提供を受けると同時に、テストドライバーとして新しいレーサーの試乗も行なっている。

「朋樹は器用で何でも乗りこなせるから、『いいですね』としか言わないんです。テストドライバーにはもっと文句を言ってもらったほうがいいんですけどね」

車いすを器用に乗りこなすとは、具体的にはどんなことを指すのだろう。
「たとえばレーサーの場合、ハンドリム(車輪の外側についている手で漕ぐための輪)が高速回転しているときは、リムを握って漕ぐことができません。そこで、グローブでリムを叩くようにして漕ぐわけですが、実はこれが難しいんです。朋樹はどうやって叩いたら車いすを前に押し出せるかを、よくわかっているんです」

 

 

20センチ以上長いウイング・スパン

千葉市中央区にある青葉の森スポーツプラザの陸上競技場で、鈴木朋樹に会った。

鈴木はそもそも800mと1500mを得意とする中距離ランナー(T54)であり、2016年に800mでアジア新記録を出し、2017年の世界パラ陸上では800mで5位、1500mで7位という成績を残している。近年はフルマラソンにも挑戦しており、2015年、2018年の東京マラソンで2位、2018年のニューヨークシティマラソンでは日本人最高の6位に入賞している。

取材当日はあいにくの空模様だったが、室内のトラックでレーサーを走らせる鈴木の姿を見ることができた。礼儀正しい、穏やかな印象の青年である。

レーサーのタイヤは競技用の自転車と同じチューブラータイヤを使っており、幅はわずか2センチほど。フレームはカーボンファイバー製で、全体の重量はわずか9キロしかない。想像していたよりもはるかに繊細な乗り物であり、下り坂での最高速度は実に80キロにも達するという。ハンドルさばきをちょっとでも間違えば、転倒は免れないだろう。鈴木が言う。

「車いすの陸上競技は、健常者の陸上競技よりもむしろツール・ド・フランスのような自転車レースに似ていると思います。前を走る選手の後ろにピタリとつけて風をよけながら、どのタイミングで勝負に出るかを考える。勝負をかけるために、最適なポジションを奪い合う。

そうしたひとりひとりの選手の思惑が絡み合って、レースが展開していきます。それがわかってくると、見ていて面白い競技だと思います」

鈴木の上体は文字どおりの逆三角形をしていて胸板も厚い、脚ではなく腕で車輪を漕ぐのだからこれは当然と言えば当然なのだが、鈴木の体には、競技力に直結するある秘密があった。

「僕は身長が167センチなのですが、両手を広げた幅が190センチあるんです」

一般的に両手を広げた幅(ウイング・スパン)は、身長とほぼイコールだといわれている。しかし、鈴木のウイング・スパンは、身長よりも20センチ以上も長い。つまり、腕がけた外れに長いのである。

「腕が長いと、車輪の一番高い位置から低い位置まで手が届きますよね。その間ずっと車輪に力を加え続けることができるので、強いパワーを出せるんです」

腕が長いだけでなく、鈴木の肩の動きも車いすを漕ぐのに適した動き方をするという。

「最近になってわかってきたのですが、健常者の人が車いすを漕ぐ漕ぎ方と僕の漕ぎ方はぜんぜん違う。僕の体の構造は、車いすを漕ぐために特化していたんですね」

鈴木はいったいどのようにして、障害を負ったのだろうか。

 

特別扱いなき「館山時代」

1994年、千葉県館山市に生まれた鈴木は、生後8カ月で交通事故に遭っている。母親の運転する車に同乗しているとき、センターラインを大きくはみ出してきた対向車に正面衝突されたのだ。事故の相手は、飲酒運転をしていた。

この事故によって脊髄を損傷した鈴木は、物心ついたときには、すでに車いすに乗っていたという。鈴木が人並み外れて車いすの操作に長けているのは、障害を負った時期が極めて早かったからに他ならない。

「だから僕には、自分が障害者であるという意識がないんです。だって、ほとんど生まれたときからこの状態なわけですから」

鈴木が障害者であるという意識をもたなかったのには、周囲の環境の影響も大きかった。

鈴木が育った館山は山が海に迫った地形をしており、豊かな自然に恵まれた土地柄だが、それだけに車いすで生活するのは難しいように思われる。しかし鈴木は、友だちと一緒に山に登り、海で泳ぎ、堤防で釣りをしたというのである。

「僕は幼稚園、神戸小、房南中学と、ずっと普通校に通いましたけれど、幼稚園から中学までクラスメイトがほとんど変わらなかったので、友だちとは家族のような付き合いをしていました」

神戸小の同学年はわずか18人で、全員が幼稚園からの知り合い。房南中の同学年は25人で、小学校時代より人数は増えたものの少人数であることに変わりはなく、やはり家族同然の付き合いだった。

「田舎なので舗装されていない道路もありましたし、山に登るには、当然坂を上らなくてはならないわけですが、どんな坂道もみんなと一緒に登っていました。友だちも、階段があったりすればちょっと手伝ってくれましたけれど、僕だけ特別扱いするということはまったくありませんでした」

波打ち際まで車いすで行き、自力で車いすを降りて海で泳ぎ、幅の狭い堤防にも車いすで入っていってルアー(擬餌針)でヒラメを釣ったというから驚く。

「海に落ちたら、泳げばいいと思っていました。地元の大人の人もみなさん温かくて、学校でも地域でも差別されたことは一度もありませんでした」

両親は、いったいどのように鈴木を育てたのだろう。

「事故のことはあまり詳しく聞いたことがありませんが、やはり両親は責任を感じていたようです。だからこそ、『車いすの子』ではなく、普通の子供として、ひとりの人間として育ててくれたのだと思います」

鈴木は中学を卒業すると、木更津総合高校という普通校に進学する。そこでも特別扱いを受けることもなく、差別を受けることもなく、青春を謳歌した。

「体育で柔道をやったときには寝技をやりましたし、木更津の山中を何キロも歩く行事にも参加しました。教室の出口でメールアドレスを書いた紙をもって、女の子が待っていてくれたこともありましたよ(笑)」

鈴木は乳児の時代に大怪我を負ったことで、車いすの操作に適した身体を発達させてきた。それが現在、アスリートとしての鈴木の大きな武器になっている。そして鈴木には、障害者であるという意識がない。

OXの小澤は、鈴木のことを単にアスリートだと思っていると言っていた。

「私はアスリートのためにレーサーをつくっているだけで、福祉とかにはあまり興味がないんです。単に顧客が車いすのユーザーであるというだけのことです」

小澤の言葉はまさに、鈴木の心身とピタリと重なり合うのである。

だが、私にはひとつの疑問があった。小澤は「車いすに乗っていると、学校に行っても競争をするという場面があまりない」と言った。しかし現在の鈴木は、世界の強豪に食らいついていく強い競争心をもっている。目標はスイスのマルセル・フグ(ロンドンの800mとマラソンで銀メダル)であると公言し、ロンドンの世界選手権ではマルセルと共に800m、1500mの決勝レースを走った。

さらに、201811月18日に行なわれた大分国際車いすマラソンでは、マルセルとゴールテープ直前までもつれ込むデッドヒートを繰り広げ、結果は惜しくも第二位だったが、1位のマルセルとの差はわずか1秒であった。

鈴木はいかにして、このような強い闘争心を手に入れたのだろうか。

 

"風を切り""人に勝つ"快感

地元館山で友だちと分け隔てなく遊んでいた鈴木が、唯一、友だちと一緒にできなかったことがある。それは野球やサッカーなどのスポーツだった。鈴木が言う。

「両親は、僕が友だちと一緒に海や山に行くのを見て、体を鍛える必要を感じていたのでしょう。横浜のラポール(障害者スポーツ文化センター)で横浜ラストラーダJrという車いす陸上のクラブが活動していることを探り当てて、そこへ連れていってくれるようになったのです。五歳か六歳のことだと思います」

ラストラーダJrの練習は、月に2回。館山から横浜までは、車で約2時間もかかる。小学校高学年まで通わせ続けた両親の苦労はいかばかりかと思うが、鈴木はラストラーダJrで決定的な経験をすることになった。

「初めて人と競争して、人に勝つ喜びを知ったのです」

鈴木は、自分が障害者であるという意識をもたずに生きてきた。しかし、運動会の徒競走では一度も勝つことができなかったという。

「幼稚園のときから、ヨーイドンで他の子と一緒に走り出すと必ず負けてしまうのですが、それを悔しいと思ったことが一度もなかったのです」

おそらく鈴木は、子供ながらに「条件の違い」を感じ取っていたのではあるまいか。そもそも違う条件で走っているのだから、負けても仕方がない。いや、負けるのが当然なのだと……。

「ところがラストラーダJrで(車いすの子供だけで)走ったら、僕より前から通っている子のこともどんどん追い抜いてしまって、生まれて初めて人に勝つという気分を味わうことができたのです」

さらに鈴木は、小学校3年生のときもうひとつの決定的な体験をしている。生まれて初めてレーサーに乗ったのである。

「ラストラーダでは先輩たちが乗っていたレーサーを代々受け継いでいるのですが、小3のときにやっと僕の順番が回ってきたのです。そうしたら、日常用の車いすの2倍も3倍もスピードが出るんです。よく『風になる』という表現を耳にすることがありますが、まさにその感覚を味わうことができたのです」

人に勝つ感じ、そして風になる感じ、このふたつの「感じ」を味わったことが「いまに繋がっている」と鈴木は言う。そして小学校5年生のとき、鈴木は横須賀で行なわれた大会(日産カップ)で花岡伸和と出会うことになるのである。

花岡は車いす陸上の技術だけでなく、アスリートとしての生き方についても、鈴木に大きな影響を与えた人物である。

「初めて花岡さんに会ったとき、ものすごくオーラのある人だと思いました。僕はまだ子供でしたけれど、きっとこの人とは長く付き合うことになるんだろうなという予感がありました」

 

 

技術の向上より大切なこと

JR千葉駅に隣接する商業施設で、花岡に会った。

1976年に大阪で生まれた花岡は、高校3年生のときにバイクの事故で脊髄を損傷して、車いす生活を余儀なくされている。

オートバイ・レーサーのウェイン・レイニーに憧れていた花岡は、事故を起こした直後、自分の下半身がぐにゃぐにゃして力が入らないのに気づいて、「レイニーと一緒かもしれん」と思ったという。ウェイン・レイニーは花岡が事故を起こすちょうど一年前、レース中に事故を起こして脊髄を損傷し、半身不随になっていたのだ。

「僕はレイニーのことを知っていたので、事故を起こしたときに"人生終わった感"はなかったですね。レイニーが脊髄を損傷した後、バギーに乗ってレースに参戦しているのを知っていましたから」

それまで自分の体について真剣に考えたことなど一度もなかった花岡だったが、ベッドの上で脊髄損傷に関する専門書をむさぼるように読んだ。海外の文献には、脊髄を損傷した場合にセックスがどうなるかまで書いてあったという。

「怪我をしてから1カ月ベッドの上にいましたけれど、いろいろな情報を収集した結果、車いすがあって、道路があって、あとは体力さえあれば、世界どこでも行けると思えるようになりました」

積極的に情報収集をしたことによって、花岡は半身不随という状況に絶望せずに済んだのである。さらに……。

「7カ月間入院しているうちに、外来に来ている脊損の先輩たちを見るわけです。そうすると、スポーツをやってる人は姿勢ですぐにわかった。スポーツをやってる人たちはみんな生き生きしているので、僕も自然にスポーツをやるようになっていったのです」

高校時代に柔道をやっていた花岡は、球技がダメで水泳がダメ。さて何をやればよいかと迷っているとき、長居障害者スポーツセンター(大阪市)で声をかけてきたのが、車いすマラソンのパラリンピアン、山口悟志(ソウルパラ4位、バルセロナパラに出場)だった。

「おい兄ちゃん、若いなって(笑)」

山口と出会ったのは、怪我の治療が終わって、公務員として就職するまでわずか一カ月というタイミングだったが、これからアメリカに武者修行に行くという山口に、花岡は「僕も行きたい」と言ってついていってしまったという。まさに、車いすさえあれば世界じゅうどこにでも行けることを、身をもって証明した形だ。

花岡が山口から学んだことはさまざまあるが、最も重要な教えを一言で表現すれば、こうなるだろうか。

「人間力の向上なくして、アスリートとしての向上なし」

この言葉、一見日本の大学の体育会にありがちな精神主義の一種のように思えるが、花岡の話をよくよく聞いてみると、むしろ精神主義の正反対の考え方であることがわかってくる。

「山口さんは元トラック運転手で義理人情の世界で生きてきた人でしたから、義理を欠くなということを徹底的に叩き込まれました。僕は生活用品を山口さんの仲介で買ってもらったりしていたのですが、そのお礼を言わないまま競技会で顔を合わせたら、山口さんが『ちょっと来いや、お前の態度は義理を欠くんやないか、誰も見てなかったら、お前地面の砂舐めとるぞ』って(笑)」

山口の薫陶を受けた花岡と鈴木が出会ったのは、鈴木が賞品としてレーサーをもらった、例の日産カップの会場である。当時、花岡は38歳、すでにアテネパラへの出場経験をもつ車いすマラソンのトップランナーだった。その花岡に、鈴木の母親が声をかけてきたのだ。

「うちの子もこのレースに出るんですが、指導してくれる人がいないんです……」

まだ現役の選手だった花岡は、現役のうちはべったり指導することはできないと母親に伝えたが、その後、月に1、2回のペースで鈴木を指導することになった。

「初めて鈴木に会ったとき、コイツは行けるなと思いました。技術がどうこうではなく、同世代の子たちと比べてチャラチャラしたところがなかったんです。この子だったらきっと真面目にやるだろうなと思いました」

花岡は鈴木に引き合わされたとき、開口一番、

「鈴木君、靴下は自分で履きなさい」

と言った。当時の鈴木は靴下を母親に履かせてもらっていたのだ。

「人間力向上」のためには、まずは自立すること。それにはたとえ靴下一足履くのでも、自分でやらなくてはならない。これが花岡による、記念すべき第1回目の指導であった。

 

「スポーツ」だけが人生ではない

花岡という指導者を得た鈴木は、中2のときに東京で開催されたアジアユースで、400mと800mの二種目で優勝する輝かしい成績を収めている。しかし、木更津総合高校時代は通学に1時間以上かかったこともあって陸上部には入らず、土日に花岡と練習をするだけの生活を送った。大会も千葉県ローカルの大会に参加しただけだった。

高3になって進路を考える際、小学校時代からモノづくりが好きだった鈴木は、車いすに乗っていることがハンデにならない建築家を目指そうかとも思った。小学校時代にテレビ番組で見て、憧れをもっていたのだ。しかし熟考の末、さし当たりパラリンピックへ出場することを目標に、進路を選択することに決めたという。

「進路を考えているとき、自分に向いていること、やっていて楽しいことを将来の仕事にしたいと思ったのですが、では、いままでの人生で一番楽しかったことは何だろうと記憶をたどってみると、それは横浜のラポールで走ったことだったのです。

自分の原点は、横浜で人に勝つ喜びを知ったことにあったのです。だから、花岡さんのようなパラリンピアンになることを目標に据えて、進路を考えることにしました」

だが、ここからが鈴木の面白いところだ。

鈴木はパラに出ることを第一目標に据えたにもかかわらず、体育大学や陸上の強豪校への進学は考えなかったというのだ。さらに、偏差値で大学を選ぶこともしなかった。パラへの出場と学業を両立できる進学先を考えて、城西国際大学の経営情報学部を選択したのである。しかも陸上部には所属せず、花岡にトレーニングのメニューをつくってもらって、大学の近くにある陸上競技場で練習するという方法を選んだ。なぜか。

「偏差値の高い大学に行けば勉強が大変で練習がおろそかになってしまうし、陸上部に入れば練習だけの生活になってしまうと思ったのです。僕の人生の最終目標は、陸上選手になることではありません。陸上はあくまでも自分を成長させてくれるものであり、そのための大舞台がパラリンピックだと考えているのです」

どうやらこうした考え方こそ、花岡が鈴木に伝え続けてきた「人間力向上」の核心らしい。花岡が言う。

「日本人は、ひとつのことだけやっている人を尊敬しがちですよね。スポーツの世界でも野球一筋みたいな人が尊敬されて、何でもかんでも"道"にしてしまう。

でも、世界で活躍している選手を見ると、多くの人がアスリートとしてのアイデンティティーとは別のアイデンティティーをしっかりともっている。スポーツをやめてもちゃんと自立して生きていけるものをもっているんです」

海外の一流選手の多くは、アスリートとしてのキャリアはあくまでも人生の一部分にすぎないと捉えていると、花岡は言うのである。

だが、私も含めて大方の日本人は、学業とパラの両立などと聞くと、「二足のわらじ」という言葉を思い浮かべるのではないだろうか。

「僕が鈴木に伝えてきたのは、スポーツ・キャリアの中に人生があるのではなく、あくまでも人生のなかにスポーツ・キャリアがあるのだ、という考え方です。なぜなら、そういう考え方のもち主の方が、アスリートとして強いからです。

スポーツ・キャリアしかもっていない人は、絶対に失敗できない、絶対に勝たなければならないという思いに囚われてしまって、むしろ高いパフォーマンスを発揮できない。たかが競技じゃないか、ぐらいに思っているほうがいいのです。鈴木はスポーツだけではダメだよという僕のメッセージを素直に受け取れる、そういう育ち方をしてきたのだと思います」

現在、日本パラ陸上競技連盟の副理事長という要職にある花岡が、「たかが競技」という言葉を使うのは勇気のいることだと思うが、花岡によればスポーツの語源はラテン語の「デポルターレ」であり、そもそもは「肩の荷を下ろす」という意味だという。

本来は肩の荷を下ろすためにやるはずのもので、むしろ多くのアスリートが猛烈なプレッシャーを背負ってしまっている。そうした倒錯したスポーツの在り方が、ドーピングや薬物依存の原因になっていると花岡は指摘するのである。

さて、城西国際大学に進学した鈴木は、3年時にやってくるリオパラリンピックに照準を合わせて、1、2年で4年分の単位をほとんど取得してしまい、3年時は陸上の練習に専念した。だが、リオパラに出場するどころか、代表選考に漏れてしまうというまさかの結果に終わってしまった。

リオパラの陸上競技(800m、1500m)には、最終的に世界ランキング6位以内の選手が派遣されたが、代表選考が行なわれた時点で、鈴木の世界ランキングは13位だったのである。

しかし、この話には続きがあって、代表選考終了直後の競技会で、鈴木は800mのアジア新記録を樹立し、世界ランキングを3位まで押し上げているのだ。

「リオに出られなかったのはもちろんショックでしたけれど、自分のピークをどうやって大会に合わせるかという期分けの方法に課題があることに気づけたので、今後に繋がる結果だと思うことができました」

鈴木は賢いのだ。その賢さは、まさに地に足が付いたキャリアをしっかりと構築している、その安定感から生まれてくるものだろう。

これから、東京パラで金メダルというプレッシャーが、狂騒的に高まっていくと思うが……。

「そうですね、メダルは自分のセカンド・キャリアのためにも大切なものだと思いますし、もちろんプレッシャーも感じています。でも、正直言って、外野は外野だと思っているのです」

鈴木は賢くて、そして図太い。

 

〈文中敬称略、以下次号〉



著者紹介

鈴木朋樹(すずき・ともき)

パラ陸上選手

1994年6月14日生まれ。千葉県館山市出身。トヨタ自動車所属。生後8カ月のときに交通事故で脊髄損傷。両足が不自由となるが、小学5年生のときに車いす陸上と出会い、そこから着実に成長を遂げる。2015年、世界パラ陸上選手権に初出場(800m、1500m)。2015年、東京マラソン2位。2017年、東京マラソン3位。2018年、大分国際車いすマラソン2位。マラソンにも出場するが最も得意とするのは800mと1500mの中距離レース。

山田 清機(やまだせいき)

ノンフィクション作家

1963年、富山県生まれ。1987年、早稲田大学政治経済学部卒業。鉄鋼メーカー、出版社 勤務を経て独立。著書に『卵でピカソを買った男』(実業之日本社)、『青春支援企業』(プレジデント社)、『東京タクシードライバー』『東京湾岸畸人伝』(ともに朝日新聞出版)など。

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