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文化大革命の嵐の中で、命がけで孫に論語を教えた祖父の話

2019年04月09日 公開

石平(せき・へい:評論家)

石平(せき・へい)

<<評論家の石平(せき・へい)氏は近著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』にて、多くの日本人が常識だと考える「論語=儒教」に対して、疑問を呈している。

自身が幼少の頃に、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接し、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱くようになったのだという。

ここではその石平氏の幼少の頃の「論語」体験を語った一節を同書より紹介する。>>

※本稿は石平著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

文化大革命の嵐の中も、平和に暮らしていた石平少年

中国生まれの私が『論語』と出会ったのは、例の「文化大革命」の嵐が中国大陸を吹き荒れていた最中のことであった。

私の出身地は中国・四川省の成都市、両親は二人とも大学の教師である。しかし1966年、私が4歳のときに「文化大革命」が始まると、両親は大学から追い出されて、成都郊外の農場で強制労働をさせられる羽目となった。

そこで両親は子供の私を四川省の山村で暮らす祖父母に預けることとなり、五歳から小学校五年生まで、私はこの山村で育った。

山村の風景は、私が今暮らしている奈良市や大阪の田舎のそれとよく似ていた。里山があって田んぼが広がり、竹林に覆われる丘と田んぼの間には、農家が一軒また一軒と点在している。文化大革命の最中でも、紅衛兵たちはそんな辺鄙な寒村にめったに来ないから、都市部と比べればここでの生活は幾分静かであった。

祖父は村の漢方医である。自分たちの住む村だけでなく、周辺一帯でも「名医」として名が通っていた。毎日のようにあちこちから患者が受診に来るのだが、私の記憶では、ほとんどの人が診療代の代わりにお米や鶏や鴨や卵や野菜などを持ってくるものだから、祖父母と私の三人の生活は、貧困でありながらも食べることに困ったことはなく、いたって平穏で安定していた。

私たち子供は毎日のように里山で遊んだり合戦ごっこをしたり、時には川や田んぼで小魚や泥鰌(どじょう)をつかまえて焼いて食べたりしてずいぶん楽しんでいた。七歳になって村の小学校に入ってからも、午後の授業をサボって里山を駆け巡って遊ぶのは、私たち悪ガキ集団の日常であった。

祖父母は私の教育に関してはいたってルーズであった。学校をサボって遊びふけたことがばれてもそんなに怒らないし、外の喧嘩に負けて泣いて帰ってきても、老人の二人は見て見ないふりをして、「何かあったのか」とはいっさい聞かない。唯一、祖母に厳しく言われたのは、「弱い子、小さな子を虐めたら絶対駄目だよ」ということだったが、他のことはどうでもよい風情である。

 

祖父は孫に、意味もわからぬ文字をただひたすらに書き写させた

祖父のほうは、私の国語(中国では「語文」という)教育にだけこだわっていた。

「算数ぐらいは学校で勉強してもよいが、お前の国語の勉強だけは、学校の青二才の先生にとても任せられない」というのが、祖父のいつものセリフである。そのため、私が小学校に上がったその日から、ほとんど毎日のように祖父の自己流の国語教育の施しを受けることになった。

そのお陰で、国語の成績にかけては、私は常にクラスの一番であった。悪ガキどもが誰も書けない難しい漢字もさっさと書けるし、学校の先生でさえ知らない四字熟語もいっぱい覚えた。この小さな小学校で、私はいつしか、国語の「師匠」と呼ばれるようになっていた。

しかし小学校四年生あたりから、祖父の私に教える国語は、以前とはまったく違う奇妙な内容となった。

以前は、新聞や本を教材にしていたが、今度は、祖父が一枚の便箋にいくつかの短い文言を書いて私に手渡し、自分のノートブックにそれを繰り返し書き写せ、と命じるのである。

しかも、一枚の紙が渡されると、一週間か十日間は同じものを何百回も書き写さなければならない、という退屈極まりない勉強である。

さらに奇妙なことに、明らかに現代語とは違ったそれらの文言の意味を、祖父はいっさい教えてくれない。どこから写してきたのか、誰の言葉であるかもいっさい語らない。「書き写せ」との一言である。

今でも鮮明に覚えているが、たとえば、「不患人之不己知、患己不知人也」「興於詩、立於礼、成於楽」などなど、小学校四年生の私にはその意味がわかるはずもない難しい言葉ばかりである。それでも祖父の命令で、毎日自分の手で、それを何百回も書き写さなければならなかった。

しかし、それよりもさらに摩訶不思議なのは、この件に関する祖父の奇怪な態度である。

毎日家の中で、私にそれらの言葉を書き写させながら、学校ではそのことを絶対言ってはいけないと厳命した。そして、祖父に渡された便箋もそれを書き写したノートも、最後は一枚残さず祖父に回収されるのである。

祖父が私に書き写しを命じたそれらの言葉は、きっと良い言葉なのであろう。なのにいったいどうして、悪いことでもやっているかのように奇妙な行動をとるのか、子供の私には不思議でならなかった。

夜中に目撃した信じられない光景そして、ある日の夜、私は信じられないような光景を目撃することになった。

 

なぜ「論語を教えること」は密かに行わなければならなかったのか?

私が夜中に目覚め、庭にあるトイレに向かおうとして台所の前を通ったときに、人の気配を感じたのだった。密かに中を覗くと、普段は決して台所に入らない祖父の姿があった。

背中をこっちに向けて、しゃがんで何かを燃やしている。目をこすってよく見ると、そこで燃やされているのは何と、私が祖父から渡された文言を書き写したノートではないか。

わが目を疑うほどの、衝撃的な光景であった。

なぜ、どうして、そんなことをしなければならないのか。その当時の私には、まったくわからなかった。

その謎が解けたのは、祖父が亡くなった後、私が大学生になってからのことである。実は、祖父が私に書き写しを命じたのは全部、かの有名な『論語』の言葉であった。

『論語』の文章と現代中国語の文章は、日本人から見ると同じ「漢文」に見えるかもしれないが、文法的にもまったく組み立ての違う文章である。山村に育った小学生の私が、十分に理解できるはずもなかった。

にもかかわらず、生徒に『論語』の言葉の意味をいっさい説明しないまま、ただ何百回も書き写させるというのは、まさに祖父の世代の教育法である。祖父は、この古式に則ったままの『論語』教育を、孫の私に施したわけである。

しかし、このような『論語』教育を、まるで悪事でもやっているかのように「密か」に行ったのは、別に「古式」でも何でもなかった。それは、「文化大革命」の時代における特異な事情によるものである。

毛沢東の発動した「文化大革命」は文字通り、「文化」に対する革命であった。つまり、中国の伝統文化を「反動的封建思想・封建文化」として徹底的に破壊してしまおうとするものであった。その中で、孔子の思想は、葬るべき「反動思想」の筆頭として槍玉に挙げられたのである。

このような状況下では、子供に『論語』を教えることなどは、まさに許されないことだった。もし見つかったら、大罪として徹底的に糾弾されたであろう。発覚したら、祖父の命すら危なかったかもしれない。だからこそ、祖父は私に『論語』を教えるのに、ああするしかなかったのである。

 

漢方医の祖父が論語を教えたがった本当の理由

しかしそれにしても、当時の祖父が身の危険まで冒して私に『論語』を教えたかったのは、いったいなぜなのか。大学生になって田舎の村に帰省したとき、やっと祖母の口からそのわけを聞き出した。

実は、漢方医であった祖父は、孫の私に自分の医術を全部伝授して、立派な漢方医に育てていくつもりだったというのだ。祖父自身の子供たちは誰一人彼の医術を受け継ごうとしなかったから、孫の私が祖父母の家に預けられたそのときから、祖父はそんな決意を密かに固めたようである。

そして、祖父の世代の漢方医の考えでは、医術はまず「仁術」でなければならなかった。

祖父は医術伝授の前段階の「基礎教育」として「仁術」を身に着けさせるために、『論語』の言葉を私に教えた、というわけである。

しかし残念なことに、私が小学校五年生のときに成都にいる両親の元に戻されてから間もなくして、祖父は肺がんで亡くなった。孫の私を漢方医に育てるという祖父の夢はついに叶わなかったのである。

これが、私が子供時代に体験した、それこそ「論語読みの論語知らず」という奇妙な勉強体験であり、私の人生における『論語』との最初の出会いであった。

おかげで、『論語』の多くの言葉が、私の記憶の中に叩き込まれ、深く刻まれた。初老となった今でも、『論語』の言葉の一つを耳にしただけで、一連の語句が次から次へと、頭の中に浮かび上がってきて、湧くように口元にのぼってくる。

その一方で、祖父が私に施した『論語』教育の真意を、大学生のときに祖母から聞き出して以来ずっと、「『論語』とは何か」というテーマが私の大いなる問題関心の一つとなった。

わが祖父が命の危険を冒してまで私に教えた『論語』は、きっと素晴らしい書物であろう。しかし、その素晴らしさは、いったいどこにあるのか。
二千数百年前に生きた孔子という人間の発した言葉の一つ一つに、いったいどのような深意があるのか。そして、今に生きるわれわれが、それをいちいち覚えておくほどの価値があるのか。

私の祖父と祖父の世代の中国の知識人たちは、『論語』のことを不滅の「聖典」だと思っているようだが、果たしてそうなのか。現代に生きるわれわれにとって『論語』を学ぶ意味は、いったいどこにあるのか、などなど、『論語』をめぐるさまざまな問題はこの数十年間、ずっと私の心の中にあり、時折、浮上してきては私に思索を促した。

こうして、幼少時代の四川省の山村での体験によって、一思考者としての私は『論語』と生涯の縁を結ぶこととなったのである。



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