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「人殺しが日常」だった16世紀ヨーロッパ…権力者は何を奪い合っていたのか?

2019年11月18日 公開
2022年12月15日 更新

倉山満(憲政史研究家)

 

宗教が殺し合いを日常にする

ヨーロッパで戦争が日常なのは、宗教問題で争っているからです。これに金が絡みますから、常に命がけの殺し合いになるのです。

1517年、マルチン・ルターが宗教改革をはじめ、ローマ教皇に喧嘩を売ります。そしてルターと支持者たちは、カトリックに対しプロテスタント(抗議する者)を名乗ります。

世の中、最初から敵だった相手よりも裏切り者の方が憎いのが人情です。両者は、比喩ではなく血で血を洗う抗争を繰り返すこととなります。

カトリックの信仰を維持した地域は、西から今の国名で、スペイン、ポルトガル、フランス、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア、ドイツ南部、オーストリア、ポーランド、エストニアです。

プロテスタントが主流の国となったのは、東から今の国名で、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スロバキア、チェコ、ドイツ北部、スイス、オランダです。

ちなみにバルカン以東はギリシャ正教が多数派ですが、この時代は異教徒であるイスラム教のオスマン=トルコ帝国に支配されていました。

正教、旧教(カトリック)、新教(プロテスタント)が、今ではキリスト教三大宗派です。この中で仲が悪いのがカトリックとプロテスタントです。

バチカン(ローマ教皇)はプロテスタントの存在を許さず、徹底的に弾圧します。バチカン千年の歴史では、逆らった者は皆殺しにするまで戦うのが常です。

イスラム教相手の十字軍は連戦連敗で、最後は叩きのめされて終わりましたが、弱い相手には徹底します。たとえば、バチカンの教えに疑いを抱いたカタリ派などは、彼らの拠点の南仏のアルビジョアに十字軍を差し向け、本当に皆殺しにしました。プロテスタントも皆殺しにされては堪らないので、徹底抗戦するわけです。

プロテスタントのオランダが、カトリックのハプスブルクに対して独立運動を仕掛けた理由は二つです。

一つはもちろん、宗教問題。もう一つは金です。オランダは経済力をつけたので、もうハプスブルクの支配を受けたくない、つまり自分で儲けた金を巻き上げられたくない、と戦いを挑んだのです。

1568年、オランダがスペインに仕掛けた独立運動は、のちに「八十年戦争」と呼ばれるようになります。最初から「80年戦うぞ」と始めたわけでもなければ、毎日連続して休みなく80年間戦っていたわけでもありません。結果として、オランダがスペインから正式に独立するまで80年間かかったので、名付けられました。

1588年にオランダ連邦共和国が成立し、事実上は独立しても、スペイン・ハプスブルク家は独立を認めません。オランダの独立運動が終わらないうちに、1618年に三十年戦争に突入してしまいます。

そして、1648年、ウェストファリア条約でオランダの独立戦争も終わりにしようとなった時、ちょうど80年が経過していたので、「八十年戦争」と呼ばれたのです。

グロティウスが生まれた時代のヨーロッパは、日本の戦国時代など平和としか思えないような、殺し合いが日常の世界だったのです。

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