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劉備玄徳も間違えた『三国志』に見る勢力選び

2021年04月10日 公開

石平(評論家)

石平『石平の新解読・三国志』
写真:吉田和本

『三国志』の時代は、大量殺戮が日常的な風景となっている大乱世でもある。黄巾の乱(184年)が始まる前の後漢王朝末期に5000万人もいた人口は、乱世の終わりには1000万人程度しか残らなかった。5人に4人が殺される時代、人びとは主君や周囲とどんな人間関係を築き、生き残りを図ったのか。

本稿では乱世を極める三国時代において、「仕えるべき主人」をどのように選んでいたのかに迫る。

※本稿は、石平『石平の新解読・三国志』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

 

「仕えるべき主人」をいかに選ぶか

平和な現代でも、就職する会社の選び方一つによって人生が決まってしまうのはよくあることである。三国時代のような乱世において、その重大さはなおさらのこと。

天下大乱となってさまざまな政治・軍事勢力が林立して覇権を争う中では、大半の人々が世に出て立身出世のチャンスをつかむために、あるいは自分自身と家族の安泰を保っていくために、どこかの勢力の傘下に入って身を寄せる以外にない。

その際、運命を託すべきこの「どこかの勢力」をいかに選ぶかが死活問題となるのである。将来性があって頼りになる英雄豪傑を選び、その傘下に入って身を寄せれば、自身の出世や一族の安泰が保障されるかもしれない。

だが、いずれ滅んでいく勢力に間違って選んで未来を託せば、己と己の家族もその道連れとなって滅んでいく運命にあろう。

だからこそ、主人として仕える人物の器量をきちんと吟味して、身を寄せるべき勢力の将来性を見極めるうえで「どこの誰に」運命を託すかを決めるのは、多くの人々にとってまさに乱世を生き抜くための究極の選択となる。

その際、天下の大勢を見る確かな目、人物の本質を見極める慧眼が何よりも大事である。

 

大将軍の招聘にも応じず

取り上げてみたいのは、魏の国の文帝・曹丕、明帝・曹叡の下で高い官職を歴任し、西陵郷侯にまで封じられた和洽(かこう)という人物である。魏の国では、和洽は建国の始祖である曹操の時代から仕えた元老格の一人である。

じつは彼は曹操に仕官する前に、どのような主人を選んで仕えるべきかをいろいろと考え、試行錯誤をした人物である。これに関し、正史の『三国志』「和洽伝」は次のように記している。

「和洽は字(あざな)を陽士といい、汝南郡西平県の人である。孝廉に推挙され、大将軍に招聘されたが、いずれも応じなかった。袁紹は冀州にあり、使者を派遣して汝南の士大夫を迎え入れた。

和洽だけは、『冀州は土地が平らかで住民は強く、英雄・豪傑の活躍につごうのいい場所で、四方からの攻撃にさらされる危険な地である。本初(袁紹)は以前からの蓄積にのって、よく強大になったとはいえ、しかし英雄・豪傑が兵をあげている現在、だいじょうぶだといいきることはできない。

荊州の劉表はとりたてていうほどの遠大な志はもっていないが、人を愛し士を好み、土地は険阻であり、山はなだらかで住民は弱い。身を寄せやすい』と考えた。かくて親戚・旧知とともに南に赴き劉表に従った。劉表は上客の礼をもって彼を待遇した。

和洽はいった、『本初に従わなかった理由は、争奪の地を避けたからである。暗愚な君主の側にはなれなれしくよるべきでない。長くいると危ない。必ずや邪悪な人間が出てきて(君主との)間を割さくものだ。』かくて南方武陵に渡った」(『正史 三国志 魏書4』ちくま学芸文庫、9〜10ページ)

以上は、和洽という人物が曹操に仕えるまで、未来を託す勢力をいろいろ取捨してきた遍歴である。彼はまず、時の皇帝の外戚として権勢を振るった大将軍の何進に招聘されたが、それに応じなかったという。

応じなかった理由について、上述の『三国志』の記述ではいっさい触れていないが、結果的にはそれが大正解であった。何進はのちに、宦官たちとの政争に敗れて殺される身となるからである。

 

「以前からの蓄積にのった」だけ

次に当時、冀州を本拠地にして天下一の大勢力をもつ袁紹が人を遣わして、和洽の住む汝南(今の河南省中部の地方、袁紹の出身地)の地の名士たちを迎え入れることになった。多くの人々がそれに応じて袁紹に仕官した中で、和洽だけは首を縦に振ることをしなかった。

どうして袁紹の招きに応じなかったかについて、和洽はまず袁紹の本拠地冀州という地方が「四方からの攻撃にさらされる危険な地である」ことを理由として挙げているが、最大の理由はやはり、彼が袁紹という人物を評価しなかった点にあろう。

つまり和洽からすれば、袁紹は「以前からの蓄積にのって、よく強大になった」だけの存在であって、本物の英雄豪傑が冀州を奪いに来たら、それを守りきれるかどうかは覚束ない。だから袁紹に自分と一族の未来を託すべきではない、との判断である。

のちに、和洽のこの判断はまったく正しいと証明された。建安5(200)年に袁紹は曹操との決戦(官渡の戦い)に敗れ、袁紹の死後間まもなく、彼の本拠地である冀州はまんまと曹操の手に落ちた。

袁紹からの招きを断った後、和洽が一族や友人を連れて赴いたのは、劉表という軍閥が支配する荊州である。荊州は今の湖北省にあるが、ちょうど和洽が住む汝南のある河南省と隣接している。

和洽は劉表という人物も全然評価せず、「とりたてて遠大な志はもっていない」と見ているが、劉表が士を好んでいること、荊州の地が「険阻」であることを理由にして、劉表に身を寄せることを決めた。

 

「長くいると危ない」

果たして「士を好む」劉表は、和洽のことを「上客」として厚遇した。だが、これで和洽とその一族が荊州の地に安住するのかというと、結局そうはならない。

劉表と接した和洽は、自分を暖かく迎えた劉表のことを「暗愚な君主」だと見て、「長くいると危ない」と判断した。和洽はまた、荊州から離れてさらに南の方にある武陵という地方に移り住んだという。

結果的に、和洽が下した判断はやはり正しかった。のちに、劉表の地盤である荊州は天下の覇者である曹操に奪われた。

その時、一時の和洽と同様に劉表に身を寄せる三国時代の大物もいたが、荊州が曹操に占領されると、この大物は一族や部将を率いて逃亡する羽目となった。この大物の名前はすなわち、かの劉備玄徳である。

 

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