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父・洋平の力は借りず...河野太郎「政治家デビュー」の舞台裏

2021年09月15日 公開
2022年02月07日 更新

河野太郎(衆議院議員)

河野太郎

菅首相の辞任表明により、永田町は乱世に突入。現在、最も注目を集める政治家・河野太郎はどのようにして生まれたのか。知られざる河野氏の生い立ち、エピソードから人物像に迫る。

※本稿は、河野太郎 著『日本を前に進める』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

 

初出馬・初当選の新米代議士

私は、平塚青年会議所に入会し、街づくりの活動にも参加するようになりました。そのころから、「いつか政治に携わりたい」と仲間に思いを打ち明けるようになりました。

1994年、細川護熙首相と野党自民党の河野洋平総裁のトップ会談で小選挙区制度の導入が決まり、私が住んでいる平塚市は、茅ヶ崎市、大磯町、二宮町と2市2町で神奈川第15区になりました。

中選挙区時代の2つの選挙区のそれぞれ一部が切り出されてくっついたのですが、2つの中選挙区から選出されていた現職議員の中で、この選挙区を選んだ議員は与野党を通じて一人もいませんでした。

青年会議所の先輩や仲間から「いつか政治に、と言うならば、それは今だ。現職が誰もここで立候補しないなどというチャンスを逃すな」と背中を押してもらいました。

ボーイスカウトも一緒にやった小学校の同級生が、会社を辞めて事務所に来てくれました。幼稚園の同級生にも頼んで手伝ってもらうことにしました。

私はやるかやらないか悩んだときに、「やらないで後から後悔するよりも、やってみて失敗したら反省するほうがよい」と考えています。

アメリカに留学したときも、選挙に出馬したときも、存続の危機に直面したベルマーレの代表取締役を引き受けたときも、後に肝臓移植のドナーになったときもそうでした。

 

「君、なんて名前だ」

出馬の意思を伝えると、親父は猛烈に反対しました。「一家で二人も選挙をできるわけがない、それに、いったい誰が俺の選挙をやるのか」。

さらに親父は私の仲間が集まっているところにやって来て、「太郎は出馬させない」と宣言しました。それでも、地元からいろんな方が親父の東京の事務所にまで足を運んで説得し、ようやく立候補への道が開かれました。

1995年の11月1日朝6時、茅ケ崎駅の北口に一人で立って、大声で挨拶を始めて、私の政治活動が始まりました。

それまで私は、駅などでスピーカーを使って演説している政治家を、「朝から大きな音を立てて」などと批判的に見ていたものですから、いざ自分が駅に立つときは、スピーカーを使わずに、大きな声だけで挨拶することにしました。

忙しい通勤時間帯ですから、立ち止まって聞いてくれる人なんていません。ですから、演説するのではなく「おはようございます。河野太郎です。いってらっしゃい」というフレーズを毎朝、2時間、大声で繰り返すだけにしました。

すると1カ月ほどしたある日、一人の男性が、私に声をかけてくれました。

「おい、若いの。毎日、元気で頑張ってるな。君、なんて名前だ」

「えっ」

毎日、ただ「おはようございます。河野太郎です。いってらっしゃい」だけを2時間、繰り返して1カ月。それなのに名前を尋ねられて、選挙は大変だとつくづく思いました。

茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮の2市2町の選挙区をこつこつと歩いて河野太郎後援会を作り上げていきました。河野洋平に応援に来てもらったらどうかという声も出ましたが、「河野太郎の選挙だ。河野洋平は関係ない」と突っぱねました。

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