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「業務マニュアルがない職場」は本当に問題なのか?

森本あんり(国際基督教大学教授)

森本あんり写真:遠藤宏

森本あんりさんによる人生相談企画「人生の道しるべ」。国際基督教大学教授で牧師でもある森本さんが、社会に閉塞感が漂ういま、あなたのお悩みに全力でお答えします。

※本稿は『Voice』2021年9月号より抜粋・編集したものです。

 

【相談】雰囲気の良い職場だけど、先輩からのアドバイスがバラバラ…

コロナ禍の病院で購買業務を担当する事務職員です。気兼ねなく話のできる雰囲気の良い職場で、大きな不満もなく働けることに幸せを感じています。

ただ一つ、課内で統一した業務マニュアルが構築されておらず、各々が自分なりのルールで業務を進めていることに小さな疑問を感じます。

購買課に配属になって2年目の私はまだまだわからないことも多く、同僚に尋ねながら仕事を進めています。たとえばAさんの指示でまとめた資料を見たBさんが「こうしたほうが良いよ」と、またCさんから「私はこうしているよ」とそれぞれアドバイスをしてくれます。「Aさんからこう指示を受けました」とも言いにくく、戸惑うこともしばしばあります。

統一した業務マニュアルがあれば効率良く仕事ができると思うのですが、経験の浅い私からベテランの方にはなかなか言い出しにくくて悩んでいます。どのように提案をすれば快く受け止めてもらえるでしょうか。

(滋賀県、38歳男性、病院勤務)

 

【回答】マニュアルづくりはあくまでも手段の一つ

始まったばかりの当コラムで最初に取り上げるのは、とってもハッピーなこの相談です。相談者ご本人が、雰囲気の良い職場で大きな不満もなく働けるという「幸せ」を感じておられるので、これはほとんど中島らもさんが『朝日新聞』で昔やっていた「明るい悩み相談室」レベルと言っていいかと思います。

ご相談によると、職場の先輩たちはみな親切にいろいろとアドバイスをしてくれるとか。ただそのアドバイスがばらばらで、ときに矛盾しているため、「あちらを立てればこちらが立たず」になってしまう、ということですね。

そういう場面になったとき、誰のメンツもつぶすことなく仕事を進めることができるように、統一した業務マニュアルを定めたい。ただし、先輩を差し置いてそんな改革提案をするのも憚られる、と気にしておられるようです。

文面からは、相談者の人となりも伝わってきます。おそらく、もし提案が受け入れられたら、そのマニュアルのたたき台をつくる作業も自分が引き受けます、という覚悟がおありでしょう。

周囲を思いやる優しさと、担当の職務をきっちり効率的に進める責任感もおもちです。もしそのどちらかが欠けていたら、こんな悩みは生まれないからです。

誰かに言われたままのやり方で規定の業務をこなし、別の人から別のことを指示されたら、それに従うだけだったでしょう。誰かに何かを咎められたら、直前に指示した人の責任にすればいいだけです。相談者は、そんなことができない誠実さをおもちだからこそ、こうして悩んでしまうのです。

というわけで、私が出す最も無責任な回答は、「そんなに××マジメに仕事をするのをやめなさい、そしたらあなたも楽になりますよ」ということになります。

そして、もし相談者がこれを「明るい悩み」としてでなく、心底苦しんだ末に喘ぎつつご投稿くださったのなら、そういう無責任さこそが、カウンセリングの観点からもいちばん適切で必要な処方箋になるかもしれません。

でも、そこまで深刻な懊悩(おうのう)というわけでもなさそうなので、この回答ではやや間尺(ましゃく)に合わないでしょう。

もともとこのタイプの回答には、「どんな仕事より命のほうが大切だ」というメッセージが込められていますが、相談者は自分の仕事にやりがいを感じており、周囲もその働きに期待と信頼を寄せているからです。だから購買実務の執行を委ねられ、先輩たちもさまざまな助言を惜しまないのでしょう。

そういう業務上の責任意識は、たしかな自己肯定感を育んで本人をさらに成長させると思います。

一方、相談内容を丁寧に読むと、マニュアルづくりはあくまでも手段の一つで、相談者が達成したい本当の目的は、職場の同僚とのあいだに無用な軋轢を生むことなくきちんと業務を担うことだと思えてきます。

マニュアルをつくるということは、権威の所在をヒトからモノへと移し、主観的な判断に客観的な根拠を与えることです。相談者は、自分が決めたのでなく「マニュアルにそう書いてある」と言えばよくなるわけです。

私は宗教の研究が専門なので、ここでどうしても「口伝」の文書化というプロセスを思い浮かべてしまいます。

釈尊やイエスは何も書き物を残さなかったため、彼らの言葉は長く口伝えで人びとのあいだに広まりました。やがて年月を経て人びとの記憶が怪しくなってくると、お経や聖書が編纂されるようになります。

教えが書物になると、記憶の継承という点では楽になりますが、新たな問題も生じます。それが「解釈」です。すべて書かれたものは、解釈による適用が必要です。死んだ文字を生ける声にする作業ですが、そこで解釈に違いが生じ、新たな対立が始まります。ヒトからモノへ移したはずの権威が、再びモノからヒトへと遷移してきて、解釈者ごとに派閥が生まれてしまうのです。

相談者が提案する新しい「業務統一マニュアル」も、同じ運命を辿ることになりそうです。まあそこまで大げさに考える必要もありませんが、何かを文書にするだけでは、問題はかたちを変えて再現するだろうと思います。

おそらく相談者の職場でも、法令上や会計基準上の基本的なルールはすでに十分すぎるほど備えられていることでしょう。「100万円以上の購入には3社見積もりをとる」とか、「重大案件は理事会の承認を必要とする」とか。

しかし、どんな決まりがあっても、人間は巧妙に抜け道を考え出すものです。昨今のコロナ禍では、「緊急事態だから」という理由づけがよく使われました。そこでまた、「重大案件とは」「緊急事態とは」で解釈を巡るバトルが展開されることになります。

というわけで、私の辿り着いた回答に「マニュアルづくり」は入りません。つくればきっと役に立つでしょうし、いつか業務を引き継ぐ際にも便利でしょう。

しかし、やっぱり決断はどこかで誰かがしなければなりません。相談者はすでに、周囲から信頼されて業務の執行責任を委ねられています。

経験を積み重ねてその信頼がさらに高まれば、この分野に関してはたとえ後輩でも彼の判断に任せよう、ということになり、矛盾するアドバイスに振り回されることもなくなるでしょう。あなたにはそういう成長の力が備わっています。

 

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