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「皇帝政治」が災いの始まりだった?わずか15年で秦を滅亡させた始皇帝の誤算

2022年02月16日 公開
2022年02月17日 更新

石平(評論家)

 

あっけなく帝国が滅亡

秦王朝の政権中枢はすでに末期状態であった。全権を握った宦官の趙高が丞相の李斯を殺したのち、自分の操り人形である秦二世にもついに手を下した。秦二世の死後、趙高は秦三世として皇族の公子嬰を擁立することにしたが、公子嬰が即位する直前にまず趙高を殺して、その一族を滅ぼした。

しかし公子嬰は、咸陽の城下に迫ってきた反乱軍に対してもはやなすすべもない。前206年の年明けから間もなく、公子嬰は皇帝のシンボルである玉璽を首に掛けて城外に出て、それを劉邦軍に献じて降伏した。全国統一を果たしてから15年、陳勝・呉広の乱が起きてからわずか2年半、あれほど強大にして盤石のように見えた秦帝国があっけなく滅亡したのである。

 

権力の逆説

秦王朝の滅亡を招いた人民の大量徴用を主とする秦の始皇帝の暴政を見ると、それを可能にしたのは、まさに彼自身がつくり上げた皇帝独裁の中央集権制の政治システムである。つまり「王の時代」の政治支配と根本的に異なる秦王朝独自の政治体制にこそ、秦王朝の早すぎた崩壊・滅亡の最大の原因があるのである。

本来、「王の時代」の殷王朝や周王朝の王の権力と比べれば、秦の始皇帝が創建した中央集権制において皇帝の権力は絶大であり、全国の官僚組織と軍隊をその手足として駆使できるほど強固なものとなっている。

しかし、まさにここにおいてこそ権力の逆説が生じてくるのである。「王の時代」とは比べものにならないほど皇帝の権力が強固で絶対的だからこそ、皇帝は人民を苦しめるような暴政を思う存分、行なうことができた。しかしその結果、暴政に苦しむ人民の反乱が起きて秦王朝が滅亡への道を辿ったわけである。

 

始皇帝による皇帝政治の確立こそ災いの始まり

じつは秦王朝が全国を統一して成立した当初、王朝のなかでは「殷王朝や周王朝と同様の封建制を採用すべきではないか」との意見もあった。しかし宰相の李斯がこれに猛反対し、秦の始皇帝自身も封建制の復活にあまり興味がなかった。結局、皇帝自身の権力の絶大化につながる中央集権制が創建された。

歴史にイフはない、とよくいわれるが、もしその時点で始皇帝が中央集権制ではなく封建制を帝国の政治システムとして採用していたら、その後の秦王朝の歴史はどうなっていただろうか。少なくとも、わずか15年で滅ぶようなことはなかったのではないか。

しかし、結果的に秦王朝は皇帝独裁の中央集権制を採用してしまった。その結果、王朝創建から15年後、始皇帝自身の死去からわずか2年半後、彼のつくった秦王朝は、中国史上最も短命な王朝の1つとして滅んでしまった。こうして見ると、秦の始皇帝による皇帝と皇帝政治の確立は、まさに秦王朝にとっての災いの始まりだったのである。

 

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