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「イタリア・ファシズム」と「ドイツ・ナチズム」 当時の影響力とは?

2022年07月26日 公開
2022年07月27日 更新

板橋拓己(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

 

ドイツへの従属を強め、反ユダヤ法を制定したイタリア

こうしたイタリア・ファシズムからナチズムへの「乗り換え」は、他国のファシズム運動にも見られる。たとえば、オランダのアントン・ミュッセルト率いる国民社会主義運動(NSB)は、当初はイタリアの影響を受けていたが、1935/36年にナチ流の反ユダヤ主義を採用した。

レオン・ドゥグレルを指導者とするベルギーのレクシストも、初めはイタリアから支援を受けていたが、30年代半ばからドイツの援助に頼るようになる。

このような動きは、独伊関係の変化、すなわちナチ・ドイツへのイタリアの従属と並行していた。1935年10月のエチオピア侵攻によりイタリアは国際的に孤立し、独伊接近が始まる。36年のスペイン内戦が独伊関係を強化し、同年11月にムッソリーニは「ローマ=ベルリン枢軸」について演説した。

イタリアは、37年11月に日独防共協定に加わり、38年3月にはナチ・ドイツによるオーストリア併合を承認する。ナチ・ドイツへの従属を強めるイタリアは、38年9月に反ユダヤ主義的な人種法を導入し、同年11月にはさらに厳しい反ユダヤ法を制定した。

それまでイタリア・ファシズムに人種主義的・反ユダヤ主義的な要素がなかったわけではないが、これでナチと同様に公式に人種主義的な原理を採用するようになった。この過程で、他国にとってのイタリア・ファシズム独自の魅力も薄れていったといえよう。

とはいえ、「ファシズム」のモデルがイタリアからナチ・ドイツに移ったという単純な話でもない。1930年代に権威主義的な政治体制を採用していたヨーロッパ諸国は、独伊双方のいわば「いいところ取り」を試みた。

たとえば、ハンガリーの首相ゲンベシュ・ジュラ(在任1932~36年)は、ヒトラー首相就任後に初めてベルリンを訪問した外国の首相だが、ナチ流の反ユダヤ主義者である一方で、イタリア型の協同体主義の賞賛者でもあった。

ゲンベシュ以上に効果的にファシズムを選択的に受容したのが、ポルトガルの独裁者サラザールである。サラザールは、1933年に制定した新憲法で協同体国家を導入する一方で、ナチ流の秘密警察を採用し、体制存続に成功した。

 

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