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全てが「ネット越し」の社会の落とし穴...コロナ対策を失敗させた「過剰可視化」の発想

2022年08月17日 公開

小川さやか(文化人類学者)&與那覇潤(評論家)

過剰可視化

コロナ禍を契機に、日本社会においても「オンライン化」が一気に加速した。対面で交流する機会が減り、むしろ「煩わしいもの」と見なされる向きもある。

評論家であり元歴史学者の與那覇潤氏と、文化人類学者の小川さやか氏は、こうしたオンラインで完結する世界では「過剰な可視化」が進み、想像力を減退させ、他者に不寛容な社会を創ると危惧する。本稿では2人の対談を通じ、「過剰可視化」社会としての日本が抱える問題点をタンザニアの社会と比較しながら明らかにする。

※本稿は『Voice』2022年6⽉号より抜粋・編集したものです。

 

「対面なし」で社会は回らない

【與那覇】今回は画面越しになりますが、小川さんとお話しするのは2014年の学会イベント以来です。本誌での東畑開人さんや千葉雅也さん、磯野真穂さんとの対談のロングバージョンも収めた『過剰可視化社会「見えすぎる」時代をどう生きるか』(PHP新書)を上梓するにあたり、敬愛する小川さんと議論できるのは本当に光栄です。

【小川】私も與那覇さんの本の読者の1人なので、嬉しいかぎりです。『過剰可視化社会』も、ありがたいことに一足早く読ませていただきました。

【與那覇】執筆の動機から始めると、2020年以降のコロナ禍で流布した「会社の会議はすべてZoomでいい」「飲み会もオンラインのほうが効率的」といった論調に、私は強い違和感を覚えました。

15~17年にうつ状態のリハビリでデイケアに通った経験から、「対面なしの社会」はあり得ないという実感をもっていたからです。

ネット上で病気の体験談を読むことは誰でもできますが、しかしそれは実際に同じ場所で、類似の病気に悩んでいる人同士が交流をもつことの代わりにはならない。治療に及ぼす効果がまったく違うわけです。

人づきあいのすべてを画面の内側に収められるといった幻想は、私たちの感覚が「視覚」に集中しすぎたことの表れに思えました。逆にいうと、物理的な身体とともにリアルな世界で生きることの意義が見失われ、たんに「煩わしい」としか感じられなくなってはいませんか。

【小川】個人的にはとても共感するお話です。ノリーナ・ハーツ(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン名誉教授)の近著『THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか』(ダイヤモンド社)の内容とも重なりますが、私たちはヘッドホンしてノイズを遮断しながら町を歩くし、誰とも会話せずにアマゾンで買い物できます。

孤独はテクノロジーの進展とも関係しており、コロナ禍で「ニューノーマル」という言葉が用いられたとき、ザラザラした人間同士の接触がますます失われて社会は回るのかと危惧しました。

私が今回のテーマである「過剰可視化社会」というキーワードから思い起こしたのは、デヴィッド・グレーバーの『負債論』(以文社)です。同僚に「この書類をコピーしてくれる?」とお願いをされたとき、どんな見返りがあるのかいちいち計算する人はいませんよね。

私たちはすべての行為を貨幣や数値に置き換えるわけではないし、グレーバーはそうした関係を「基盤的コミュニズム」と呼び、社会を成り立たせる前提だと考えました。

他方で私たちの社会では、人間を業績や生産性などの物差しで測ることがますます自然化している。そうした計算は個々の人間から固有性や社会的文脈を剥奪し、人間をみな「形式的」に平等な存在と措定することで可能になったものです。

そうした考え方こそが、本来の社交の基盤である「見返りをとくに意識することなく、相手が必要なときに自分ができることをしてあげる」という所作を失わせているように思えてなりません。

 

タンザニアの人びとの「人間多様化戦略」

【與那覇】同感です。リアルな身体はPCの画面と異なり容易に「最適化」できない分、ちょっとした頼まれごとなどのネガティブな要素も、さほど気にせず受け入れる柔軟さをもっている。むしろ「新規にログインしての手続き」のほうが主観的には負担に感じますよね。

小川さんは『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)で、香港の巨大雑居ビルにひしめくタンザニア人滞在者の生活を描かれました。じつは私には彼らの人間関係のあり方が、うつ状態で通ったデイケアでの体験と重なってみえて新鮮な驚きを覚えたのです。

その鍵になる論点が、まさに「ネガティブさの共有」です。同マンションの住人は多かれ少なかれ、法的にグレーな領域に足を踏み入れているし、商売上の失敗談も抱えている。

しかしそのことが「必要以上に相手の内情を覗き込まない」「何かの『ついで』で可能な、負担感のない範囲で助けあう」モラルをつくっていると。

デイケアでも同様に、発病の経緯などの身の上話は「本人が話したがる範囲に留める」、症状が重い人に配慮する際も「『恩着せがましい』かたちにならないよう気をつける」ルールが自然発生的に営まれているんですよ。

【小川】流れ者が集まる地域にも同じような人間関係が生まれますよね。本人が口を開くまでは根掘葉掘り事情を詮索しないし、誰かが困っていれば可能な範囲で助けますが「なぜあなたはそんな状態に陥ったのか」とは聞きません。現在の状況のどこまでがその人の自己責任の結果なのかは本来、問うことが難しいものです。

【與那覇】SNSなどのネット空間では視覚情報が優位なため、プロフィール上に「可視化」しやすい学歴・職歴などのポジティブな要素ばかりが交流の基盤になりがちです。

これらは本人が「意図して獲得した」指標ですが、人生は病気や失敗といった、自力ではコントロールできない要素にも満ちている。そうしたネガティブさを「露悪趣味」にならないかたちで共有可能にする工夫が、真に多様性を認める社会のためには必要ですよね。

【小川】本当にそうだと思います。チョンキンマンションの人びとは、他者は「権外」だと認識しています。彼らは、自分の人生が思うままに進まないのと同様に、他者だって思うままにならない人生を経験しているだろうと想像する。

人間は状況に応じて良くも悪くも豹変するものだと語り、相手の言動に疑問を感じても、すぐさま啓蒙したり批判して相手をコントロールするよりも、相手の変化に応じてつきあう知恵を大事にしています。

【與那覇】興味深いです。確かに彼らには「遠隔地ナショナリズム」(移民ゆえに母国に対して抱く愛国心)のような、抽象的なレベルで「自分も周囲も均質に同一化してゆく対象」をみつけようとする発想を感じません。

【小川】まったくありません。かなり「個人主義」なので(笑)。そもそもコミュニティという概念自体を危惧しているのだと思います。タンザニアでも民族や職種などを基盤とする共同体や組合は存在しますが、暮らしが不確実なので、誰かに何かを施されてもお返しができるとはかぎりません。

先ほどのグレーバーの議論にもつながりますが、形式的平等を前提にメンバー間の互酬の帳尻を合わせようと考えても上手くいかないのです。

だから彼らは、たとえば会合を開いても他者の話に応答せず、みな自分の希望を一方的に口にします。でも、誰が何を望んでいるかは頭の片隅に入れておき、自分に余裕ができたときに「俺、いまならあの件で手伝えるよ」と連絡をする。

キャッチボール型のコミュニケーションは互いに応答の義務が生じて負担になるので、とにかくボールを投げて誰かがいつか拾ってくれるのを待つわけです。

そうしたコミュニケーションのやり方でも、社会や組織に多様な人間がいれば1人くらいは応答してくれる。もしも皆が同じタイプや境遇の人間であれば、誰もボールを拾ってくれないでしょう。いうなれば彼らは「人間多様化戦略」で社会を回しているのです。

【與那覇】あらかじめ「配慮すべき少数者です」と可視化されたリストをつくるのではなく、「いつ、誰が助けてくれるかわからないから」自ずと多様性を尊重しているのですね。そのほうが寛容さの懐が深いような。

【小川】私もそう思います。彼らは、やり取りしている金品とは別に「時間を贈与しあっている」と語ります。たとえば掛け売り(後払い)をしても、なかなか返済されないことが多々ある。

でも、商人たちは無理にツケを取り立てることなく、気長に待ちます。その様子をみて不思議に思った私は、ある商人に「ちゃんと返している人もいるのに、返さない人を放置するのはおかしくない?」と聞いたんです。

すると「いや、金が貯まるまで待つといったのは俺だし、一度あげた時間を取り上げることはできないよ」という答えが返ってきた。これはつまり、その商人は掛け売りという仕組みを、代金の支払契約と時間の贈与に分けて考えているのです。

人間にはそれぞれの人生のタイミングがあるし、事情があります。だからこそ、借りた「時間」をいつ返すかは本人が決めるべきで、他者がせっつくことはできないというのが商人たちの論理です。

たしかに考えてみれば、お金がないときに誰かがご飯を奢ってくれたとき、何に感謝するかといえば、ご飯の美味しさや値段ではなく、自分の人生に晴れ間がくるまで寄り添ってくれたという事実でしょう。

だからこそ、相手がいつか同じようなピンチに陥ったとき、自分にできることをしようと考えるわけです。資本主義経済の論理では、その場でお金をやり取りするのが「正解」なのでしょうが、私にはタンザニア人の考え方のほうが、いまの時代を生き抜くヒントになる気がしています。

【與那覇】日本にも昔は「出世払い」の慣行があり、いまもサークルなどで先輩が「俺に返すんじゃなくて、君たちも後輩に奢って」として飯を食わせる文化は残っています。

しかしタンザニアと異なり、これらは時間の贈り方が出世や進級、つまり「成長」への一方向に限られている。そこがやや狭いのかなという気がします。

【小川】タンザニアの人びとは、必ずしも出世しそうだから面倒をみるわけではありません。自分の人生もどう転ぶかはわからない、詐欺にあうかもしれないし刑務所に入る可能性もあると考えます。

その万が一のときには、同じような失敗を犯した人間に連絡をしてアドバイスをもらったほうがいい。だからこそ、将来成功するかどうかに関係なく人を助けるのです。

むしろ、自分の周囲が全員出世してしまったほうが困る(笑)。いろいろなタイプの人間が、それぞれの人生を歩んでくれたほうが、人間多様化戦略においては重要なのです。

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