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外資系コンサルが痛感した、英会話に活きるのは「勉強より国語読解力」

河村有希絵(コンサルタント)

2023年07月10日 公開

外資系コンサルが痛感した、英会話に活きるのは「勉強より国語読解力」

ロジカル・シンキングなどの論理的思考スキルは、ビジネスパーソン一般に求められるようになりました。しかし、まず論理的に物事を読み解き、自分の思考につなげてアウトプットするために必要なのが「読解力」です。コンサルタントの河村有希絵氏が読解力の重要性について語ります。

※本稿は『思考の質を高める 構造を読み解く力』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。

 

論理は言語以上の言語

唐突ですが、私は英語が嫌いです。

1歳から4歳まで、父親の転勤でシンガポールに住んでいました。ある日、両親が出かける際に日本語をまったく話すことができないベビーシッターさんに預けられたのですが、両親が帰ると顔面蒼白、せっかく話せるようになった日本語もつっかえるようになってしまいました。これはあとで聞いた話で、そのときの記憶はまったくありませんが、この経験がいわゆるトラウマ化しているのだと思います。

中学、高校と座学で勉強しているときはまだよかったのですが、いざ外国人と話すとなると、ものすごく緊張し、身構えてしまって、聞こえるものも聞こえないし、言葉が出ません。

そんな私が外資系企業で働くことになってしまいました。日本支社で働いていたので、英語ばかりというわけではありませんでしたが、そうは言ってもトレーニングは海外で外国人の同僚と一緒に英語で受けなければなりませんでしたし、クライアントが外資の場合は、英語で議論しなければならない場面はありました。

ところが不思議なことに、それでもなんとかなっていたのです。派遣留学後、英語はかなりマシになったと思いますが、それ以前でもどうにかはなりました。

そもそも派遣留学自体も、成績はともかく卒業はできたわけです。会社はチームで動きますし、学校も友達がいますから、英語ができる人に助けてもらえたということはあるのですが、自分が前面に出なければならない場面でもなんとかなりました。

なぜでしょう? それは、推論が働いたからだと思います。資料はこういう流れのようだから次はこうくるかな? とか、昨日までこういう状態だったから今日もこうだな、など、目先の展開が"読める"わけです。

もちろん、その言語の単語や文法の知識をある程度持っていることも大切ですが、AとくればB、Cの次はD、EとFは対立、といったロジックがあれば、わからない言葉があったり、聞き取りに難があったりしても先が読めます。

特に私が携わっていたマネジメント・コンサルティングという仕事は論理性が求められました。クライアントや関係者に提案し、理解し理解され、議論し説得し、ともに動くということが仕事なので、共通の論理のもとで、言葉が多少わからなくても仕事は進むのです。

留学でも、学んでいたのはビジネスでしたので、同じように共通の論理で話は進みます。そういう意味で、論理を"読む"ことができれば、言語や国籍を超えて世界で戦うことが一定程度できるということになります。

 

文章読解で論理力を鍛える

論理を"読む"とはどういうことなのでしょうか。

"読む""読解"と言われて、最初に思い浮かぶのは、人が書いたものを読み解くということでしょう。説明文・論説文を中心に、わかりやすく書かれた文章を読み、どういう根拠で何を言いたいのかを理解するのが国語の読解です。

これは、国語に限った話なのでしょうか。学生なら、算数や社会、理科といった科目であっても、どういう根拠で何を言っているのかということは重要です。ここが、国語は他科目の基礎、と言われる理由でしょう。

さらに、この「相手がどういう根拠で何を言っているのか」を理解することは、私たちのコミュニケーション全般に渡って欠かせないことです。日常のコミュニケーションでは圧倒的に口頭のコミュニケーションが多いのではないかと思います。人は伝えたいことがあって言葉を発します。

「ちょっとそこにある塩とって」
「明日は雨の予報だから、外出の予定は明後日以降に変更するよ」

これらの単純な依頼や事実の伝達、情報の交換であれば簡単ですが、一言、二言ではとても済まないビジネスプランや交渉事で真意を伝えるのは時としてとても大変なことです。それは伝える側の責任もあるし、受け手の責任もあるでしょう。

受け手として、伝え手の言わんとすることをその場で正確に理解することは、日本人同士なら日本語という共通言語に精通していればよいというわけでもなく、実は簡単なことではないのです。

訓練が必要だし、現実に人は言葉を話し始めてから、おびただしい量の対話を通じて、正確な理解の訓練を積んでいるのです。

書かれたものを読んで理解するほうが、その場で話されたことを理解するよりも易しいのではないかと私は思います。もちろん、内容にはよります。難解な文章は書かれても難解だし、単純な内容であれば話してもらうだけで十分にわかるでしょう。

しかし同じ内容であれば、書かれたものを理解するには多くの場合、まず時間的なゆとりがあります。何度も目で追うことができ、「こういうことかな」「ああいうことかな」と考えることができます。

そしてそれもまた、書かれたものを理解することはもちろん、その場で話されたことを理解する訓練にもなると思うのです。これが、本来の国語読解の趣旨なのではないかと私は考えています。

国語の教科書には、その学年に当たる子どもにとって語彙などが理解しやすく、テーマや文脈としては親しめる一方で、多少のチャレンジもありそうな文章が選ばれて掲載されています。

先生によっては、教科書以外の文章をプリントで配布してくれることもあるでしょうが、おそらく同じような観点で文章を選ぶはずです。

私の場合、小学校3年生のころに授業で読んだ、雪国の暮らしについて書かれた文章が印象に残っています。たしか、教科書ではなく先生がプリントで配布してくれたものであったと思います。

筆者もタイトルも覚えていないけれど、「根雪ということばがある」から始まる文章で、雪国の暮らしや人々の様子が書かれていました。文章は淡々と書かれていたように記憶していますが、体験したことのない雪国の暮らしの大変さと美しさを読み取りました。

「根雪」という言葉の紹介から入った作者の意図に深く納得したのを覚えています。「根雪」という言葉から入って、「雪下ろし」、「雪囲い」といった言葉をつなぎ、雪国の暮らしを伝えるのは論理です。

説明や論説を中心に、他者が書いたものからその論理を読み解き、自分の思考へとつなげていくことが、読解の第一歩なのです。

 

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