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社会

戦場カメラマン・渡部陽一が「日本はもはや特別ではない」と悟った瞬間

渡部陽一(戦場カメラマン)

2024年01月30日 公開

戦場カメラマン・渡部陽一が「日本はもはや特別ではない」と悟った瞬間


車が行き交うウクライナの首都・キーウの大通り

世界各地で繰り返されている戦争。攻撃のあった街や、被害にあった人々の映像や写真をニュースやSNSで見ることが多くなっています。

「戦争」というとどこか自分からは遠いところにあるように思われるかもしれません。
しかし、戦場カメラマンの渡部陽一さんは、日本にも「戦争」という日常があると語ります。

※本稿は、渡部陽一著『晴れ、そしてミサイル』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。

 

戦争は貧困と孤独から始まる

紛争地を回ってきた僕が感じる、戦争やテロの根っこにあるものは「貧困」です。

日々、安定して家族が暮らせる環境があれば、戦うという手段を選ぶ必要はありません。しかし、その暮らしが脅かされていく。貧困によって、やりたいことができなくなる。そのうちに「明日を生きることができるのか」と不安に襲われる。

すべてが奪われ、壊されて、食べるものがなくなるかもしれない。そして、家族や子どもたちの命が危機にさらされていく。

こうして「生きるためには武器を取らざるを得ない」という極限の状態につながっていく。貧困の「選ぶことができない」不自由が、人を追いつめ、テロ行為や戦争へと駆り立てていくのです。

追い詰められた人たちは、この貧困を招いた犯人は誰かと探しはじめます。さまざまな要因が絡まっているはずです。自然環境の問題。飢餓の問題。不公平なビジネス取引の問題。差別や格差の問題。その犯人をたどっていった先に血の報復が起きる。そして繰り返されていく。

貧困をきっかけに起こる報復合戦の歴史が、今のウクライナ戦争にもつながっています。

そして貧困は、子どもたちから教育の機会を奪います。武力による戦い以外でも暮らしを整えていくことはできるはずなのに、その手段すら知ることができない。テロや戦争といった悲しい事件の根っこには、必ず「貧困」というスイッチがあるのです。

あまりにも過酷で貧しい暮らしに向き合うと、ふつう、人は一人で生きていくことはできません。

僕が世界各国を回って気づくのは、地域の人たちが連帯しながら一日一日を暮らしていくのが、多くの国にとっての日常であるということ。そうした地域での連帯を支えているのが宗教です。宗教の考え方を入り口にして、共生のあり方や貧しい中でも生きていくための気持ちや体を整えていく。

一方、宗教観が土台にある国の場合、その教えが徐々に尖り、「ルールから逸脱することは許さない」となっていくと、宗教から暴力が生まれることがあります。それが世界の過激派やテロ組織誕生へとつながっていくこともある。

厳格なイスラム教徒の中から、一切の世俗的な価値観を認めない急進的なイスラム主義者が生まれ、その人々が過激派となって武装し、テロや暴力行為を行うようになったのもその一例です。

もちろんそれは一部であり、人と人とが共に暮らし、愛情をもって寄り添い、寛容の心を持って生きていこうという思想があらゆる宗教の根幹にあります。

日本に住んでいると、そうした宗教観を土台にした連帯する暮らしや、そこから生まれる過激派の脅威はさほど身近に感じられないかもしれません。一方で、地域や宗教観による連帯を前提としない現代の日本ではどうしても、貧困に陥った人たちが孤立してしまう傾向があります。

貧しく、家族もいない。ひとりぼっち。部屋から出てこられない。仕事をなかなか手にすることができず、日雇いの仕事をして、ネットカフェに泊まることができたらラッキー。公園で夜を明かすこともある。

そういう見えない貧困、社会の不平等が、悲しい事件の引き金になりかねない。安倍元首相の事件を見て、僕は「日本はもう特別な国ではなくなった。世界各国と同じような苦しみや不安の入り口に立ったのだ」と感じました。

 

日本の中にもある「戦争という日常」

一般的には、戦争とは国と国が戦い合うものだと思われています。紛争とは、国と国に限らない二者以上の戦いのこと。必ずしも武力を伴ったものを指すわけではありません。戦争も「紛争」のうちに入ります。

ただし、僕は、露骨に「戦い」という形で表出していないだけで、「戦争という日常」はどこにでもあると考えています。

戦争という日常。それは、国と国の戦いに限りません。人が人と暮らす中で自ずと生まれるしがらみ、格差、衝突。そして、すべての戦争の原点にある貧困。特定の人たちが利益を追求しすぎることで、別の少数派の人たちが貧困に陥り、抜け出せなくなること。

そうしたことを発端に、「生きるために奪うか、奪われるか」という人間の争いの本能が輪郭をあらわすことがある。このことを「見えにくい戦争」が起きている、と捉えるならば、戦争はどの国にも、もちろん日本にもあるのです。

軍隊と軍隊が武力を用いた争いにまで発展したものは、いわば「見えやすい戦争」になったもの。ウクライナ戦争がまさにその例です。

戦争という日常は、さまざまな形で僕たちの身の回りに潜んでいます。

たとえばある地域の中で、一部の人だけが貧困の状態に陥っていること。差別を受けていること。歴史や政治、経済、文化といったものがさまざまに絡み合い、そこには衝突が起きかねない火種があるのだけれど、少数ゆえに今は消された存在になっている。

たとえば、麻薬を栽培している、貧しい国の若者たち。生きるために麻薬をつくるしかない人たちがいる。なぜそんなことが起きるのか。豊かな国の人たちがそれを使うからです。そして、栽培した麻薬を輸送したり、売ったりすることで働き口を得ている人がいるからです。

何かしらの利権を守るために、不平等なビジネスが生まれる。そして麻薬をつくり続けるしかない貧しい国の若者は、貧困から抜け出せない構造になっている。

もっと身近な例でいえば、地域コミュニティーの中にも衝突が起きる場面はたくさんあるでしょう。いじめの問題。ハラスメントの問題。お金持ちばかりが住んでいる地域で、自分たちの利権を守るために、弱い立場の人たちを追い出そうとすること。子ども同士の些細なトラブルが、PTAを巻き込んで地域の大きなトラブルにつながることもある。

このように、僕たちの暮らしの中にも「これはいったい、どうしたらいいんだろう」と思うような小さな衝突がたびたびあるはずです。一部の人たちが理不尽に、自由を制限された状態を受け入れざるを得ない状態になっている。

それに対して、みんな本心で言えば自分や、大切な人たちの暮らしを守りたい。少なくとも自分が安心して家族と過ごせる暮らしを守りたいと思っている。それが本音です。

ただ、特に日本においては、トラブルになることを恐れて、本音を言わず、建前で濁すことが多い。これによって一見すると、争いや衝突がなくみんな平和に過ごしているように見える。

しかしながら実際のところは、ある時点までは我慢できていても、何らかのきっかけでこじれてしまえば、「私が自由に生きることを奪う相手とは、戦わなければいけない」と争いに至ってしまう可能性があります。

そうした地域トラブルを防ぐために、町内会や市議会のような仕組みがあるのですが、かつての日本の村社会のような、支え合っていくコミュニティーの力は今どんどん失われていっています。人々が孤立しやすい状態になっている。それがまた、新たな貧困や悲しい事件へとつながっているのが現実です。

戦争という日常はどこにでもある。それが、世界の戦場や、情勢が不安定な地域に足を運んできた僕の考えです。

 

生きるための奪い合いが戦争の本質

日本にとって、今後の発展につながる入り口であり、同時に「見えにくい戦争」を生みかねない課題の一つは、外国からの難民や移民をどのように受け入れていくか、です。戦争地域からの難民だけではなく、留学生やビジネスでやってきた人たちも含めて、どのように向き合い、多様性を迎え入れていくかが、今、問われています。

これまで日本は、世界から人を受け入れて、自分たちのビジネスもグローバルに展開していくことが苦手だと言われてきました。実際には在日外国人は相当数いるのですが、日本のこれまでの慣習を押しつけてしまう、異なるものを排除して新しい芽を摘んでしまうといった面はまだまだ現実に多く見られるように思います。

そうしたクローズドな国民性は、なかなか海外マーケットを巻き込んだビッグビジネスが育たない要因としても指摘されています。国内のマーケットを意識するあまり、多くのビジネスがガラパゴス化した結果、現在の円安の問題が起きている。

その中で、ダイバーシティ、多様性といったキーワードが国内でも挙がってきました。これからは日本だけで閉じずに、オープンマインドで海外の人たちを受け入れ、うまく協力し合いながら生きていくことが日本の力にもなる。

一方で、これまでとは異なるオープンな関わり合いをするとなると、生きるための奪い合いが加速していきかねない。「なぜ移民に仕事を奪われるのか」というように、争いにつながっていく可能性はゼロではありません。

難民についても、不平等の問題がつきまといます。日本はウクライナから避難してきた人々を実に温かく迎え入れました。ウクライナ避難民に対する支援は、たびたびメディアで明るく報道されている。

一方で、アフガニスタン、シリア、スーダンといった国からの難民に対しての眼差しはまったく違う。実際にはほとんど受け入れておらず、「どうしてウクライナだけ特別扱いしているんだ」と多くの国から批判が出ているのです。

移民や難民の受け入れには、ただオープンにみんなを受け入れようといったポジティブな面があるだけではありません。不平等に見えるさまざまな規制の裏には、国の利益や外交関係、欧米諸国とのつながりといったさまざまな視点が絡み合っています。

その中でも、今回のウクライナからの避難民の受け入れが、一歩、二歩とステージを上げて、日本が寛容な態度で、また多様性を重んじながらさまざまな国の人たちと共に生きていくきっかけとなることを願っています。

グローバル化や移民の問題。いずれも現代ならではの課題のように見えますが、そこで起こりうる争いの構造はシンプルで原始的です。

生きるために奪うか、奪われるか。これがあらゆる戦争の根底にあります。

 

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